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2012-04-08

”美味”と”嗜好”について その2(自由なワインへの道)

美味(美味しいか、美味しくないか)と、嗜好(好きか嫌いか)を混同してしまっている人が多いように思うのは僕だけでしょうか?

素晴らしい料理人が素晴らしい食材を使って作った料理。
僕のような素人が、素晴らしい食材を少々(かなり)荒削りに、だけど極々シンプルに料理したもの。
素晴らしい料理人が冷蔵庫の残り物で、創造力と技術を駆使して作った料理。

上記3パターンとも、ある程度の“普遍的美味”が約束されているであろうことは皆さん納得していただけると思います。

ですが、こう書いたらいかがでしょう?

素晴らしい状態(鮮度、品質)のトリッパ(牛の胃袋)を素晴らしい料理人が適切な下処理&調理で仕上げた料理…。

モツないしモツ料理に偏見のない人でしたらば、相変わらず美味しそうだと思っていただけるのでしょうが、”内臓だから”とか”見た目、食感が・・・”というような先入観、もしくは過去の苦い経験がある人にとっては、美味しい料理たりえない。いや、もっと正確に言うのなら、“(その料理は)美味しくない”のではなく、“(私はその料理を)美味しく感じない”or“好きじゃない”のですよね?

美味しいものは、誰にとっても等しく美味しいはずですが、先入観や極度な固定概念、経験、文化などによって美味しく感じてもらえない場合あるようで、それはつまり“美味しい(はずな)のに、好きじゃない”ということを意味していて…。

ワインは嗜好品などといいますよね。最終的にはそういうことになるとは思うのですが、あまりにも短絡的にそう結論付けられていないでしょうか?会話の中に”嗜好”という言葉が使われるケースの大半が、「僕にはあなたの好みが理解できません」という裏の意味があるような気がしてしまうのは僕だけでしょうか?

僕は常々、ワインは僕にとってコミュニケーションツールのひとつなのだと言っています。で、誰とコミュニケーションをとるためのものかというと、もちろん多くの場合は、空間、時間を共有し、同じワインを酌み交わしている人たち ですが時々、ワインの中に没入する時があって、

“あー、あん時あいつ、あんなこと言ってたなぁ”とか、
“あの時は全然分かんなかったけど、あいつが言ってたことはこういうことなのかなぁ”とか、
会った事のない造り手なら、“もしかしてこの造り手って、こんな人なのかなぁ…”とかいう風に、造り手とコミュニケーションをとっているような気分を味わう時もあります。

もちろん美味しいものを1人で賞味するのも嫌いじゃないですけど、僕にとって食事やワインというのは、(空間、時間、思いなどなどを)共有するという行為に重きがおかれているということなのかと。素晴らしいワインには、人(造り手)、土地(テロワール)、年、ブドウ品種の個性の差異によって、香り、味わいに無限のグラデーションが表現されています。なので、ワインの世界では多くの語彙を駆使して表現するようになったわけですが、それは自分以外の他人と感覚を共有するためですよね?

一般の方とワインのお話をする時、しばしば“このワインて~の香りがしますよね?”と聞かれることがあり、実際そのワインを嗅いでみて、その人からしてみたらワインの専門家かもしれない僕がその香りをワインの中に見出すことができず、それが僕の表情に現れた時、“あ、やっぱりないですよね!”って言われたりすることがあります。ですが、僕が感じたor感じなかったに関わらず、その人がその香りを感じたというのは事実な訳です。その人が感じたものに不正解など存在せず、他者に理解してもらえたとしたらそれに越したことがないでしょうが、理解してもらえなかったとしても“その点に関しては理解しあえなかった”というコンセンサスが生まれるわけです。大事なのはこの点なのではないでしょうか??

親友である、某下町個性派人情イタリア料理店の店主Aは、“ヒサト、このワインカブトムシの幼虫の香りがするぞ!”とか“俺が昔飼っていたハムスターの籠の香りだ!!”だとか本当に変な例えをし、当然素直に共感することができなかったりします。が、彼がカブトムシの幼虫の香りと言っているものはもしかしたら、彼が少年だった時にカブトムシの幼虫を獲りに行った林の、緑、腐葉土などの香りを指しているのかもしれず、僕のように街で育ち昆虫獲りなどをあまりしてこなかった、原体験に欠ける人間だから分からなかったのかも…と想像したりすることが、Aをそして僕自身を再認識することに繋がる…これがワインのコミュニケーションツールたる所以なのかと。

そんな色彩豊かで、加えてアルコールも含有しちゃってて舌の滑りを潤滑にしてくれる、つまり胸襟を開いて話しやすくなる上に話題豊富なワインを、“嗜好品”という言葉で片付けてしまうのはもったいない気がするのです。

僕は人にも物にも性善説を採用したいお気楽な人間ですので、宗教や偏見(先入観、固定概念)を越えた先には誰もが共有しあえる普遍的な美味が存在すると信じています。僕は、僕の舌や鼻が特別で、マニアックで、オタッキーだと、これっぽちも思ってませんので、僕が美味しいと思うものは他の人にとっても普通に美味しいものだと信じてこの仕事をしています。

とはいえ、先入観や偏見が全くない人間など存在するはずもなく、でもそこに少しでも近づけるよう僕たちにできることは、それらを持ち合わせていることを自覚したうえで、そこからできるだけ自由であろうと努力する、そんなことくらいなのかと。

味覚における本物の嗜好とは、普遍的美味の中にある、個々人の好き好み程度であるべきなのではないでしょうか?(例:塩加減ですとか、肉も大好きだけど、普段は魚中心の食生活ですとか…)

ふー、ようやくこれで本題一歩手前まで来ました!

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