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2016-11-16

【新入荷】2016年11月 その1

taberu

まずは先日の食べる試飲会にお越しいただいた方、そしてご協力いただいた方々、本当にありがとうございました。本来インポーターが企画すべき試飲会の体を成していないうえに、想いに実力が伴っていない部分も多々ある会ではあるのですが、懲りずに今後も続けていきたいと思っております(笑)。

今回も何人かの来場者の方に吐器/バケツに溜まるワインの少なさにとても驚いたというコメントをいただきました。これこそ僕たちの狙いというか、想いがある程度の形を成したものなのだと思います。“ワイン(お酒)は嗜好品”などと言われますが、そもそも優劣の審判(評価)を下されるためではなく、飲まれるために生まれてきたはずなのです。

皆さんが皆さんのお客様に自信を持ってお勧めするためには、評価することを前提に試飲しないわけにはいかないというのも勿論理解しているつもりです。かく言う僕自身も、“選び切った”ものを皆さんに紹介したいと思って造り手を探してきています。で、この評価を下すという行為、それをプロが行う際には“愛”と“責任”と“覚悟”がなければいけないのではないでしょうか。ワインをヒト(自身の子供であったり、仲間であったり…)に置き換えれば、より分かり易いのではないでしょうか。

“愛ある評価”とは、別に甘口採点や全てを無条件で受け入れることを指しているわけではなく、むしろそのワインそして造り手の素晴らしい未来を信じ期待してのものであるのならば辛口批評、辛らつな意見さえもそれにあたるのかと。そして責任と覚悟が伴う評価を下すためには、普遍性が伴うべき良し悪しと主観的(私的)な好き嫌いの間には多少なりとも差があると認識できていること、そして“評価される側(ワイン)”だけでなく実は“評価する側”も過去~現在~未来にかけて刻一刻と変化を遂げている“揺らいだ存在”であることをちゃんと意識できているかどうかが重要なのだと思います。

僕自身のことを振り返ってみても、半人生前(笑)のイタリアに住んでいたころの僕の評価軸など思い出すだけで恥ずかしくなるほどブレブレでした…。ガイドブックなど他者の意見を(ほぼ)鵜呑みにし、ワインの容姿(それも大半が人為的にクリエイトされた…)にばかり気を取られ、内面の美しさを無意識のうちに二の次としていて…。今現在に限りなく近い感覚を持つに至ったのは、たかだか5-6年といったところなのではないでしょうか。

「太田さんは造り手のことを個人的に良くご存知ですし、生産の現場にも足繁く通ってらっしゃるから、理解できることも多いのでしょうね」的なことを言われることがあります。それはその通りかもしれないのですが、イタリアに通い倒し、セラー&食卓で樽から瓶から飲み倒し、人として尊敬できる造り手たちと多くの時間を過ごし倒すことで僕がワインの世界で“できる”ようになったことといえば、“理解”ではなく“想像すること”や“信じること(あれ?大阪のF丸社長が某R通信WEB版に同じような事書いていたかも…(笑)”だったり、“審美眼を磨く”ことではなく“心が動かされる(感動)という感情感覚に素直になる”ことなのだと思っています。

いきなりですが、ワイン取り巻く物語を音楽に例えるのなら、

・作曲者&演奏者:造り手
・楽器:ブドウ
・アルバム(CDのような形をとったもの):ボトリングされ商品化されたワイン
・聴き手:飲み手
・コンサートに行く:造り手と時間空間を共有し、話を聞き、人柄に触れながらワインを飲む

といった感じになるのかと。

で、ありったけの想いを込めて作曲し、その瞬間の技術の限界に挑戦し、魂で楽器を奏でる上原ひろみちゃんのような偉大なアーティスト(しつこくてすみません(笑))のコンサートに行ったのなら、ジャンルの好みを超えて多くの人が心を奪われると僕は思っているのですが、彼女くらいの領域で勝負しているアーティストならCDという無機質な媒体の中にも手先の技術等を超えた何か(それを魂と呼ぶのかと!)を封じ込めることができると僕は信じていますし、ライブというまさにライブな空間に身を置かずとも、ちゃんと心の耳をもって聴けばCDからでも十分にその一端を垣間見ることができるとも思っています。

で、またワインの話に戻りますが、造り手がプロである限りボトルの中に何らかのメッセージを込めるべき(まさにMessage in a bottle…ポリスの名曲です!)ですし、プロとしての僕はワインという液体から、その年その瞬間その場所でしか起こりえなかった天(天候気候)、大地(テロワール)、ブドウ、そしてヒト(造り手)の掛け合いで生まれる音楽が放つメッセージにどこまで素直に耳を傾け、想いを馳せられるか…そんなことを心がけながらワインに対峙しています。

ワインが完全に無機質なモノであるのならば“愛のない~”でも良いかもしれませんが、いくつかのワインには造り手の魂(自然への畏敬の念、感動、喜び、苦労、苦悩、執念、情念、情熱などが昇華したもの)が確かに詰まっていて、その時点で無機質でなどありえないと思うのです。そしてそういったモノに対しては、飲み手側にもそれ相応の向き合い方があって良いのではないでしょうか?常に相手(ワイン)の非とするのではなく、もしかしたら自分の側にもブレや誤解、無理解があったのではないか?と思いつつ自身の意見や思いを披瀝したほうが、対象がワインであれヒトであれ、互いにとって円滑円満な関係を築くことができるのではないでしょうか。僕個人としては、そのモノ(物&者)に対して愛がなく、そのモノの将来にも無関心な人の評価や意見など聞く耳を持つ気にもなれません。過激なことばかり好き放題言っているように思われているかもしれないオータですが、対象に愛があり、その未来に憂いを感じているからこそ苦言を呈しているつもりですし、過去の文章を読む限りここ10年ほどはあまりぶれてもいない気もしています。発言自体の過激レベルは僕の覚悟の現れとも言えますし、立場上負うべき責任ももちろん感じてのものだったりします。

ナチュラルワインの根幹を成すべきコンセプトは、畑で化学的な薬剤に頼らずセラーでも極端な人為的関与をできる限り避けたもの…などという技術的な側面以上に、天地から微生物までに至る、あまりにも巨大なものと極小の存在が複雑に重なり合うことで成立する自然という事象を、全て捉えることなどできないという諦観の念を持ちつつも少しでも捉えてみたいという気持ちを持つこと(今回来日したレ ボンチェのジョヴァンナが言うところの第3の目を持つというのがそれに当たるのかと)、そしてその中にいかに自身の身を委ねられるかという精神的な側面にこそあると思いますし、造り手も飲み手も、“ナチュラルな”ワインを志向するのならば、その感性感覚を“自然に”身に着けるべきなのではないでしょうか。ワインをメインで取り扱っていますのでワインと書きましたが、料理であれ食材であれ、同じことが言えると思います。

といつも通り長すぎる前置きとなりましたが、11月の新入荷ワインの第1弾行きます!

camillo

カミッロ ドナーティのワインが届きましたよぉ!いっつも一瞬でなくなってしまう白に関しては、約倍量を仕入れてみました!!白(トレッビアーノ、ソーヴィニョン、マルヴァジーア セッコ、マルヴァジーア ドルチェ)&ロゼ(マルヴァジーア ローザ)は全て2015年になりまして、2014よりは重厚な味わいです。収量が極端に少なかったトレッビアーノは800本のみの入荷ですので瞬殺必至ですが、他のワインは年末くらいまではもつ…?と思われます。

余談ですが、ランブルスコ2015というワインは存在しないという事を先日知らされました。アルコール度数が15%を超え、2009年の二の舞になることを恐れた(笑)カミッロ、一部をロッソ デッラ バンディータにブレンドし(約20%)、残りを地元で量り売りしてしまったそうです。というわけですので、ランブルスコは今在庫のある2014年が終わった後は2016の出荷待ちとなります。お買い逃しなきよう!

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