造り手紹介 3 Fonteinen / ドゥリー フォンテイネン
産地(州):ベルギー パヨッテンラント地域 ベールセル
所在地: 3 Fonteinen – Molenstraat 47, 1651 Lot – Beersel<Map>
Web:https://www.3fonteinen.be/
ヴェルナー、アルマン、ミカエル
ドゥリー フォンテイネンは、ベルギーのベールセルにあるランビックビールの醸造所兼ブレンダーで、昔ながらの製法でランビック、グーズ、クリークを製造している。ドゥリー フォンテイネンという名前は、宿屋で3種類のビール(ランビック、ファロ、クリーク)を提供するのに使用されていた磁器製ハンドポンプを指しているとされるが定かではない。その歴史は1882年にまで遡るが、現在のルーツは1953年にガストン デベルダーがドゥリー フォンテイネンと名のついた宿屋とグーズのブレンド場を前事業者から引き継いだところから始まる。ガストンは、1961年にベールセルの教会広場にある古い建物を新たに購入し、建物は取り壊して新しいパブレストランをオープンし、ドゥリー フォンテイネンの名前もそのまま引き継いだ。このパブは60~70年代にかけて地元で有名になった。ベルギーの作家兼芸術家であるヘルマン テイルリンクが設立した文学クラブ「ミジョール・クラブ」がここで会合を開いており、クラブにはベルギーの著名な作家、芸術家、政治家らが集い、沢山の議論が交わされ、ヘルマンは地域のビールの歴史を知り尽くしていたため、グーズも議論の的となった。ヘルマンがガストンとガストンの息子アルマンに与えた影響は計り知れず、アルマンは「伝統的なランビックとグーズを守るために戦う信念を持ち続けていられたのは、3番目の祖父のような存在だったヘルマンのおかげだ」と言っている。当時は瓶ビールはまだニッチでランビックは樽詰めされていたが、アルマンはランビックを瓶詰めするように父のガストンを説得し、ボトルは建物の下のガストンが自ら掘った地下室に保管され、瓶詰め作業もそこで行われた。この地下室は、ビールを熟成させるのに理想的な場所だった。
1982年にガストンは二人の息子アルマンとグイドに事業を譲った。アルマンはヘッド ブレンダー(最終的には醸造家)になり、弟のグイドはカフェとレストランを切り盛りした。パブは大繁盛したが、人々の嗜好が徐々に安価なラガービール、甘いフルーツビール、ワインへと変化し、グーズの人気は衰え、1990年代初頭までにグーズの消費量は史上最低を記録した。しかしアルマンの情熱は常にビールにあり、父親の嗅覚、知識、経験、そして父の頑固さまでも受け継いでいた。グーズの人気は低迷していたが、1993年、オブジェクティブ・ビア・テイスターズが、ベルギー醸造界で功績を残した者に贈られる年間トロフィーをドゥリー フォンテイネンに授与した。これはアルマンが正しいことをしているということを証明する出来事だった。1997年1月、アルマンの呼びかけにより、ランビックとグーズの伝統と職人技の保護、継承、促進を目指すHORAL(ランビックビール職人協議会)が創設され、アルマンは2015年まで会長を務めた(2018年に脱会)。この頃からランビックの見通しは徐々に明るくなり始めた。
ドゥリー フォンテイネンはブレンダーであったが、自ら醸造することを決め、ホーフ通りの小さな醸造所で1998年に最初のバッチを醸造した。ファンが少ないビールに投資する醸造所購入の決断に家族は乗り気ではなく、ベルギーで80年近くぶりのランビック醸造所であったため、銀行も購入資金提供に消極的だった。設備の購入を容易にするため、アルマンとグイドは事業を分割し、グイドがレストランカフェを引き継ぎ、アルマンはランビックの醸造とグーズのブレンドだけに集中する新法人を設立した。アルマンの情熱と努力により、2000年代初頭からランビックの復活が進むと、ドゥリー フォンテイネンは最も多産な伝統的製法の生産者となり、2008年までには長期的に安定した財政状態になり、倉庫も4か所に増えすべてが順調に進んでいた。
2009年5月16日の朝、全てが一変する。通常は18°Cに保たれている倉庫が、機械の故障により60°Cまで上昇し2万5千本以上が暴発し、一晩で1年分の収入に値する8万本のボトルを失った。アルマンは破産を覚悟したが、彼の仲間と愛好家たちがアルマンと醸造所の再建を助けた。醸造家たちが支払期限を延期したり、売り上げの一部を寄付してくれた。事故の2週間後、酸化はしていたが香りは残っていたグーズを蒸留するために100人ほどのボランティアが65,000本のグーズを空ける作業に協力した。その原料はビアセ蒸留所に持ち込まれ上質なオードヴィー「アルマンズ・スピリット」になった。さらに残っていたオーク樽で醸造したランビックを季節毎に異なるブレンドでグーズにして、春、夏、秋、冬の「アルマン4」シリーズとなった。友人、家族、愛好家たちの支援と、「アルマン・スピリット」と「アルマン4」の予想を超える売上、醸造設備の売却、私財の投入により、生き延びるだけのキャッシュフローが生まれた。目標はただひとつ、継続することだった。
2010年、かろうじてパートタイムの従業員を雇える資金を確保したとき、新しい製造アシスタントを得た。当時26歳のミカエル ブランクエールの中に、アルマンは若き日の自分の姿を見た。職人技に突き動かされ、伝統に触発され、学ぶ意欲にあふれ、さらに優れた嗅覚を持ち、品質だけが基準となる人。自社設備がなかった間、近隣のランビック醸造所から購入したランビックをブレンドすることで経営を維持してきたが、アルマンとミカエルが再び醸造を始めたいという願望を表明するのに時間はかからなかった。2012年、彼らはホーフ通りに3,000リットルのクールシップ容量を備えた小さな醸造設備を設置した。彼らは再びスタートを切ったが、4つの場所に倉庫があり、倉庫間移動に多くの時間を費やしていたため、醸造を除くすべてを一元化することは必須だった。
2013年、ヴェルナー ヴァン オッベルゲンが次のステップのための事業計画を書くことを提案。アルマンは数字に興味がなかったが、当時まだ資金繰りに苦しんでおり毎年私財を投じて経営に当たっていたため、ミカエルとヴェルナーは週末を全てこの作業に費やした。2014年から約6年の移行期間をミカエルとヴェルナーが率いた。2015年に完璧な場所を見つけ、樽貯蔵室、瓶詰めライン、ラベル貼りライン、保温室、そして管理部門、これらを全てひとつにまとめることができた。
2017年、アルマンはドゥリー フォンテイネンの将来像をテロワールの復活、地元の穀物・地域特産のサワーチェリーへの回帰と宣言した。サワーチェリーはスーパーマーケットではほとんど商品価値が無かったが、クリークには最適で、当時多くの人が持ち込んできた。現在は、他のすべての果物も有機栽培の果物農家から直接仕入れている。大麦と小麦に関しては、過去数十年間の工業農業により、伝統的な在来種は跡形もなかったが、地域ネットワーク内で農家、パン屋、ビール醸造業者のつながりを再構築すること目的とした穀物共同組合を作り、産業型農業の連鎖を断ち切り、古い在来種を徐々に復活させた。そして何よりも穀物に関するすべての関係者間の絆を強めた。そこにはホップも追加され、アルマンの長年の願いを実現している。そのほか、陶芸家(ランビックジョッキ)、バスケット職人(柳の籠)、ガラス吹き職人(昔ながらの本物のグーズグラス)、ホーロー会社(伝統的なホーローのビールの看板)などともコラボレーションするなど、果樹栽培者、農家、職人、愛好家、さらには近隣の人々など多くの人を巻き込んでいる。
2019年春、アルマンは前年に発見された癌が転移していると告げられ、自分に万が一のことがあっても、ドゥリー フォンテイネンの将来を危険にさらさないために醸造所の株式を後継者に売却することを決めた。2019年6月には、治療の影響が大きく体力を消耗して入院することになった。2020年春にはコロナが大流行し、事態はさらに難しくなった。そして2022年3月6日(日)午前0時過ぎ、アルマンはこの世を去った。アルマンにふさわしく盛大な追悼式が開かれる一方で、世界中から惜しみない弔意と弔辞が寄せられた。醸造所とブレンダーの家族の長であり、後継者たちの第二の父だった。アルマンは生涯、心血を注いでドゥリー フォンテイネンの進路を決めてきた。ビールはもちろんのこと、精神、価値観、そして個性についても。アルマン亡き後、アルマンの情熱と不屈の精神が、ドゥリー フォンテイネンが下す選択に影響を与えない日はない。醸造、ブレンド、テイスティング、すべてにおいて、彼は常にそこに存在している。それがドゥリー フォンテイネンの在り方であり、これからもずっと変わることはない。
【ランビック】
ランビックはそのまま飲んでも美味しいが、通常、
【グーズ】
ランビックなしではグーズは語れない。グーズは、
【フルーツランビック】
ランビックとフルーツは、
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