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2007-02-05

自分史そしてヴィナイオータ史 その2

1990年続き 家庭教師をすることになった家に初めて行ったときにワインをご馳走になった。モーゼルのワインで、ハーフボトルだったから上のほうのクラスのものだったのだろう。この時初めて、酒そのものを心底美味しいと感じることができた。それまでは酒を美味しいと感じたことがなく、甘いカクテルなどを飲んでいたしビールも嫌いだった。

1991年 春から夏にかけて この時期は僕の人生上一番酒が強かった時期。心に傷を負った僕はバーボンなどを飲んでいた。1晩で気づけば1本近く飲んでたことも。
夏、突然ビールが美味しく思えるようになる。
同夏、中国の内蒙古のほうに植林ツアーに参加する。北京から徐々に奥地へといったわけだが、このツアーを企画した教授というのが中国では有名なのか、行く先々で毎晩宴会。北京で飲んだのが茅台酒(マオタイシュ)で、53度と決して度数は低くないのだが、内地に行くにしたがって、白酒の度数がどんどん上がっていくは宴の激しさは増すばかり。歌を歌いながら民族衣装を着たお姉さんたちが杯を持ってきて、何回かイッキで飲まなきゃいけなかった。水は飲むと危ないとの事なのでぬるいビールをチェイサー代わりにして。内蒙古に向かうとある行程で、訳あって(実に中国的な理由で)スーツケースなどの大きな荷物と別移動をしなければならなくなった。届くべき日、届くべき場所に届かず、結局それから2-3日後に目的地である内蒙古に僕達が着いた時に届いた。その晩は、ありとあらゆる困難の末に目的地まで辿り着いた喜びと、もう戻ってこないと半ば諦めかけていた荷物が戻ってきた安堵感から、みんなのテンションは高く宴への突入。白酒の度数もこの旅最高の65度。人生初の千鳥足、記憶喪失、二日酔いを体験。そして翌日がつらかった。水が飲みたくても真水は飲めないし、当然ミネラルウォーターなど売ってないし・・・ノンアルコールの飲み物といえば果汁0%のサッカリンとかが入っていそうな毒々しい炭酸飲料があるくらい。このとき食べたスイカにはほんとに助けられた。
この旅以降、ハードリカーを全く美味しいと思わない時期が5年程続くことになる。

1992年 イタリア料理・ワインに出会う。地方の大学だったんですが、近くにちゃんとしたイタリア料理屋さんがありまして、そこでランチを食べてイタリア料理に開眼、そこでバイトを始める。家での食事もご飯よりもパスタの比率が高まる。仕事場で見てきたものを見よう見まねで作ったり、大御所シェフの本を見たりしながら作ったりしてました。
サービスをしていく中で、もう少しワインについて知りたいと考えるようになり(お客様からしてみたら僕がアルバイトか社員かなど分からないわけで、そしてお金を払うわけですから少しでも自分の好みに合ったワインを選びたいと考えるのも道理ですし)、個人的にもかなりの本数をあけました。家でだけで年間100本くらいはいってたと思います。
この頃から都内のイタリア料理屋さんとかにも行き始めました。小僧には場違いすぎるような場所にも行きました。近くの席で志村けんが大人な飲み方とかしてるのを見て、”おお、俺は凄い店に来てるんだな”と感慨に浸ったりと、無邪気に楽しんでおりました。
間違いなく町で一番エンゲル係数の高い学生だったと思います。

1993年 春 初イタリア。凄い国だなーとひたすら口あんぐりの旅でした。ローマではケッキーノという内臓料理で有名なお店の料理、老舗らしい重厚な雰囲気に感動し、とある酒屋の経営するワインバーでは無茶苦茶フレッシュな水牛のモッツアレッラと珍しいワインを堪能した。数年後、この酒屋の上に住む事になろうとは・・・
フィレンツェではガチガチに緊張しながらピンキオーリで食事をしました。今でもそういうシステムなのかは知りませんが、当時のピンキオーリは、白1・赤1・デザートワイン1の3種構成と白2赤2デザート1の5種構成の2種類のワインコースがありました。僕は後者を選んだのですが、値段もそれほど高いという印象を受けなかったので、てっきり全てワインがグラスでサーブされて、なくなりそうになったらほんの少し足してくれる程度だろうと考えていたのですが甘かった。例え2人でそのワインコースを頼んでいても、全てボトルが開くんです!!!!!緊張のせいと、出てくるお皿の数も多かったため、どうセーブしてよいのか分からずにひたすら飲んでいたらかなり酔っ払っちゃいました。後年、その時頂いたメニューに書いておいてもらった、飲んだワインの内容を見てびっくり、Solaiaの85とかが普通に出てました。安かったなー、この頃は。

1994年 一般的な社会人には向いてない、というよりなれないと親に小さい頃から刷り込まれていたせいなのか、本人もうすうす分かっていたのか、普通に就職という選択肢が僕の中にはなく、なんとなく大学院にでも行こうか、公務員にでもなろうかと考えていたのですが、22歳の時に初めて勉強がそれほど好きではないということに気づく(ゲームとしての勉強は決して苦手ではなかったとは思うのですが・・・)。そうなるともう趣味を実益に変えるしか、社会で生きていく方法がないと考え、イタリアのワインについてもう少し知りたいので、大学院に行かせると思ってイタリアに行かせてくれと親に頼む(この時が始めて自分の意思を親に対して表明した瞬間かもしれません)。で、あっさり承諾を得る。

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