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2012-04-09

いまさらビオワイン考 (自由なワインへの道)

ヴィナイオータさんて、イタリアのビオ(or自然派)ワインのインポーターですよね?

この質問、5億回くらいされていると思いますが、いつも返答に困ってしまいます。

ビオ、自然派という、定義が定まらないというか、人によってその言葉が指す対象(対象そのものだったり、対象となる範囲でしたり・・・)が異なるこれらの言葉、僕自身はできるだけ使わないように心掛けてきました。

扱っているラインナップの8割以上が有機農法を実践していますし(認証のある造り手、ない造り手どちらも含めてます)、残り2割の中にも実践している造り手がいるかもしれませんが、確認していないので分かりません。逆に、アールペーペや、アッコマッソアルド ビアンコ(バルバレスコの現役の造り手としては最長老)など、有機とは呼べない造り手もいたりします(Ar.Pe.Pe.はボルドー液以外の農薬を使い、アッコマッソとアルド・ビアンコは除草剤を使うので)。

で、8割強の中の90%くらいはセラーでの仕事ぶりを加味しても確実に、世間様で言うところの、“ビオ”ですとか“自然派”にあたると思います。

ですので、“ビオワインのインポーターか”と聞かれれば、“概ねそうです”位には答えられるのかもしれません。ですが、真面目にお断りしておきたいのが、8割弱が“ビオワイン”だったというのは、あくまでも“結果”だったということ。つまり“ビオワイン”を捜し求めてこういうラインナップになったのではなく、僕がワインに感銘を受けたり、造り手のフィロソフィー、心意気に共感したりして、取り扱うことになったワインに、たまたま”ビオワイン”と呼ばれるものが多かった、それだけなんです。

“プライベートで飲むものもビオばっかりなんですか?”と聞かれることも良くあります。

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2年くらい前に開いているボトルを階段に並べて撮った写真。
概ねそうのようです・・・。

興味が湧いたので、自分のブログ内で”ビオ”と”自然派”という言葉が何回登場しているか検索してみました。

で結果ですが、“自然派”は12回。弊社取り扱いワイナリーを直接的に“自然派”と呼ぶようなニュアンスは数回あったくらい。興味深かったのは“ビオ”のほうで、15回登場しているのですが、そのうち1回が自虐的な表現で“ビオワイン”という言葉が、もう1回はラビオリ、そして残り13回がなんとネッビオーロでした・・・。この結果には自分でもちょとびっくりしてしまいました。

いかに僕がこれらの言葉に興味がないのかを象徴するデータかと。

ビオワインとは?”、というお話は出尽くした観があるのでここで詳しくは触れませんが、“あえてひと言で言うなら?”を考えてみました。バガボンドに出てくる柳生石舟斎風に言うのなら、”ただの言葉じゃ” ってところじゃないでしょうか。武蔵の場合は“天下無双”でしたが、今回のケースでも世間は、“ビオワイン”という言葉に囚われすぎてしまっている気がします。

フランクやパーネヴィーノのワインのように、好む好まざるに関わらず、明白なまでに醸造学的な“造り込み”を拒否したようなオーラを放つ“ビオビオした”ワインもあれば、サングイネートやトリンケーロ(の赤)、あとソルデーラとかカッペッラーノのように、誰が飲んでも至って“普通”なものもあるし、はたまたラ カステッラーダの白みたいに、マセレーションを施したものであってもエキセントリックさのかけらも感じさせないものもあるわけで、“ビオワイン”とひと括りにしたところで、そうであることが明らかである佇まい(見た目、香り、味わい)のものもあれば、言われなければそうであるかも意識せずに飲めるビオワインもあり、ビオかビオじゃないかという線引き自体が元々ナンセンス(そして乱暴)なのかと。

ビオワインというあまりにも大きな括りに関して良し悪しを論じるのは、“ブルゴーニュワインは美味しい”とか“イタリアワインは嫌い”とか言っているのと同レベルなんじゃないでしょうか。僕は、ビオであれ、ブルゴーニュであれ、日本のワインであれ、“誰が造ったワインなのか”が大事なのだと考えています。

これが意味することは、ビオ、自然派の擁護者だと思われている僕自身が、それら全てを認めているわけではないということで、言い換えるなら、“ビオ”や“SO2無添加”を謳っているワインだとしても、僕自身腑に落ちないものが沢山あるということで・・・。

散々いろいろなところで書いていますが、僕はワインにとって一番大切なものは個性だと考えていて、その個性とは、土地、気候、年、ブドウ、そして人の個性であり、それらを余すことなくボトルの中に封じ込めるためには、畑ではできる限り自然環境に負荷をかけない農法、セラーでもできる限り人為的関与を避けた手法で醸造を行うのがどうやらいいらしいという帰結に至り・・・。

家で普段ビールを飲む時は、エビスビールな太田家ですが、本当はできることならエビスの代わりにベアード・ブリューイングのビールを切らさずに備蓄して飲んでいたい!エビスを普通に全然美味しいと思うのですが、やっぱりビールにもキラリと光る個性を感じていたい・・・。とはいえビールなら、破綻もないけど個性に欠けるエビスでも全然OKなのですが、これがワインとなると、ベアードさんのビールようなワインでないと我慢できないのです!!!!!!!!

多くの造り手が、良いワインを造るための要素の8-9割は畑での仕事ぶりにあると言います。しかしながら残念なことに、残り1-2割の部分でテクノロジーなどを駆使したものであったりして、僕自身美味しいとさえ思えないようなビオワインや、その1-2割で仕事としては極めてナチュラルな手法で誠実に行っていることが想像できるワインで、美味しいとは思えるのですが個性や熱を見つけることができないものもあったりします(このケースが一番残念に思います)。

こんなことから、イタリアのビオor自然派ワインのインポーターと言われてもあまりピンと来ず、むしろ、“なんだか良くわかんないけど、やったら個性的で旨いワインを入れてるインポーター”といわれるようになりたいと考える今日この頃です。

ビオワインに対して否定的な立場をとる方たちが、その理由に挙げるものの大半が匂いと見た目な気がするのですがそれっていかがなものなのでしょうか?見た目(濁っている、色が濃いなど)や香り(若干の還元香ですとか)など、その人がそれまで遭遇したことのないものをビオワインの中に見出した時、それを理由にあっさり拒絶してしまうのは、もったいない気がするのです。自分が経験してきたものだけが真実であると考えるのは、とても危険であることはいろいろな例からも明らかですよね(異宗教、異文化間の対立など)。

タイ、中国やベトナム、そして日本のある地域では、昆虫を食べたりしますが、それを“ゲテモノ食い、気持ち悪い”と断じてしまうのか、“自分が経験してきたものとは異なる文化”として許容し、そしてさらに興味を持てるか・・・。

濁りとある種の“香り(臭い?)”は、添加する2酸化硫黄の量が少なすぎたり(もしくは全く添加してないか)、無ろ過でボトリングされたせいで、ビン内に侵入を果たした微生物さんが、レジスタンス活動を行ったが為に出るものなわけですよね。

濁っていることも例の香りが出ていることも、“ビオワインなんだから仕方がない”とは決して思いませんし、ないに越したことはないわけですが、あったとしても空気に多少触れさせれば飛ぶ程度の臭いでしたら(飛ぶのに数年かかるものもありますが・・・)、待てば良いわけですし、濁りに関してはフランクがかつて言ったように、“色や濁りを飲むわけじゃなく、ワインを飲む”わけですから全く気にする必要はないんじゃないでしょうか。

フィルターやSO2が特別高価なわけでもないわけで、全ての造り手にとって導入しようと思えばすぐに導入できるものなのに、なぜ使わないのでしょう? フィルターの場合、微生物以外にも香味成分など、そのワインの核となる要素まで漉し取られてしまうからですし、SO2に関しても、本当に単純に、自分が気持ち良く飲めるワインたらしめるためにできるだけ添加したくない(or 全く添加したくない)というような、造り手の個人的(特別、特別なわけでもない、極々一般的な良識ある飲み手としての彼らの)欲求を具現化しただけのものだったりします。

なので、“オーガニックの認証団体が入れて良いと決めた規定値までまだ十分に余裕からあるのだからもう少し入れちゃえばいいのに”とか、“日本の規定値の350mg/lは成人が1日1本を80年間飲み続けても問題のない量とされているんだから、そんな小さな数字に固執することに何の意味があるのか”とかいう問題ではないのです。

繰り返しますが、濁っていたり、ある種の臭いがあることを良しとしているのではなく、技術的には容易に回避できることを、造り手が彼らの良心の元に“あえてやらない”と決意した結果、若干でてしまったものに対してどれだけ好意的でいられるか、そういう話なのかと。

僕自身の数少ない経験からでさえ、過剰なろ過がワインから“熱(魂ともいえるかもしれません)”を奪うと認識するに至っていますので、造り手がノンフィルターというオプションを選択することに関しては全くもって賛成ですし、その前段階のSO2添加を若干量(もしくは無添加)にしようというのも、リスクが多少なりとも存在する決断なわけですから、それに対して僕たちはもう少し寛容でもいいような気がします。

チーズも発酵食品の1種ですが、穏やかな香り味わいのものから、強烈な臭い+味わいのものもあり、匂いの強烈なものは、美味しいと感じるまでには慣れが必要な気がします。クサヤが大好きな人も、あの強烈な臭いを“良い香り”と感じているわけではないですよね?ですが、あの臭いの向こう側に代替の存在しない唯一の味わい、旨みがあることを経験的に知っているから、“美味しい臭い”位には考えているんじゃないでしょうか。

ワインも、同じ醗酵食品の仲間ということで、同じように考えてもらえないものなのでしょうか??

ジャンル分け、美味、嗜好・・・何が言いたいのか相変わらず分かんなくなってきてますが、実は普遍的美味を持つものを嫌いだと思っていた理由が、僕らの側にあるケースが多分に存在すると認識しておくべきなのではないでしょうか?

彼ら(ワイン)は話ができないので、自身が否定されても反論してきませんし・・・。

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