おいしさの起源 その5
2020年の流行語大賞は“3密”だそうですね。キャッチーな言葉が選ばれると分かってはいても、本質(本性)とか本当に考えなければならない事から目を背けたいだけのような気がして、少々複雑な気分になります。自然に翻弄されたり、自然がもたらした災いに無常観を感じるのは致し方ないとして、2020年は社会、政治、政策、誰かの都合、メディア、噂、風評、理屈に合わない事に翻弄され、それらの流れや方針に無常観を感じさせられたことに、腹立ちを感じているのはオータだけではないはず。
学校や保育園が休校していた時、田植え前の田んぼで思いっきり泥んこ遊びをしていたオータ愛息(当時5歳)とその師匠(小5)が“マスクもせずに密になって遊んでいる”と小学校に通報する自粛警察がいた時には、本当に驚きました…。混沌とした2020年から何かしらの教訓を得る上で、最大のキーワードになるとオータが考えるのは、ズバリ“不要不急”です。この言葉に傷つけられ、この言葉を大義に掲げられて活動(労働、表現など)機会を奪われた人がどれほどいた事か…。
世間でいうところの“不要不急仕分け”に則るのでしたら、“美味”も不要不急という事になってしまうような気がするのはオータだけでしょうか?? 誰しも食べずには生きていくことができませんから、敢えて考える事さえしないのかもしれませんが、「安全性、栄養価の高さと消化吸収のしやすさ」という根源的な“おいしさ”さえ満たしているのならば、“美しい味”かどうかは重要(必要)ではないのでは?そうだとすると、それこそ栄養調整食品やらサプリメントで事足り、安全な水分として生まれた(と思われる)ワインも、科学技術の恩恵によって安全な水に比較的困らなくなった現代においては、不要不急の存在になってしまったという事に…。以前も書きましたが、今この瞬間も、明日の生を繋ぐための食料でさえままならない人が、この世界にはたくさんいるわけで、正義感に溢れまくる自粛警察なら、美味さえも不謹慎と言いかねない気も…。ですが、文明文化を享受できる環境にある人が、享受することを申し訳なく思うのはちょっと違う気がするのです。幸運にも文明文化を享受できる立場の人なら、食のシーンから“美味”が完全になくなってしまったら、世界が物凄く空虚なものになることを容易に想像できると思います。前述の“根源的なおいしさ”が肉体に栄養をもたらすものなら、“美味”は心の栄養。心と身体のどちらもあっての人間。我々は生き延びるために生きるのではなく、心豊かに生を謳歌するために生きるべきで…。
味であれ、音であれ、映像であれ、我々の五感に強く訴えかける何らかの“美”を備えるものは、我々にとって決して不要不急などではないんです! 緊急は要しないかもしれませんが(笑)。自然、プロスポーツや音楽などの芸術、そして美味を生み出す人々…。オータは、オータに感動や新しいアイデアをプレゼントしてくれる美と美の提供元を尊敬していますし、それらの美を一生堪能していきたいと思っておりますので、これからも一生懸命応援していく所存です!
今回の不要不急騒動が、多くの人にとって「自分にとって、本当に大切なものは何か?」を考え直すきっかけとなっている事を願ってやみません。そして、皆さんと大手を振って3密状態でワイワイガヤガヤと美酒の杯を重ねる日を夢見て…。
おわり