ヴィナイオッティマーナ2022【造り手セミナー】ダヴィデ スピッラレ

目次

①セミナー動画 (質問コーナー|03:03~)

ヴィナイオッティマーナピリオド8 DAY1に行われたセミナーの様子です。スピッラレ家は代々兼業農家としてブドウ栽培を営んでおりました。収穫したブドウのほとんどを売却し、一部のブドウを残し、甘口のワイン、レチョート スプマンテを自家消費用に生産していました。ダヴィデのお父さんがビアンカーラのアンジョリーノと友達だったということもあり、幼い頃から、アンジョリーノの家に出入りしておりました。アンジョリーノの畑やワイナリーでの仕事に魅了され、徐々にダヴィデもワインにのめり込んで行きます。そして、10代の若さでワイン生産者の道を歩むことを決意します。大地には良いブドウを育む全ての要素が備わって(そなわって)いる、という考えから、ブドウ、自然、大地、との対話を、最も重視し、ボルドー液以外の薬剤を使用せずブドウを栽培。醸造においても、出来る限り手を加えず、シンプルで本質的なワイン造りを目指しております。

②造り手紹介 (01:06~)

ダヴィデ スピッラレの造り手紹介、詳しくはこちらから。

③造り手への質問と回答

Q1. 18歳からワインの仕事を始めて、いままで違う仕事をやろうと思った事はありましたか?(3:03~)

A1. NO!
18歳の時に ワイナリーを始めるという日本では未成年の時に始めるなんて、日本人的にはとんでもないことですが、当然18歳より前に何やってたかと言うと 高校生 学生だったわけです。
最初にノーと 答えたのは、やろうと思ったことはありますか という答えに、ないと答えたわけですけれども その高校生の時に、当然勉強しますよね、でも 大して勉強してなかった。それでも勉強しなしなりに 本 読んだり 学校で習う事があった、色々考えたことはあったと思いますが、ただ 他の仕事は考えたことはないです。
彼自体の農学校に通ったわけですけれども その時から 大地に触れ合うこと 農に携わることとか ブドウの木に触れて ぶどう栽培に携わることは、ずっとやってみたいことと思っていた夢を実現しただけなんです。ブドウ 栽培を実際やってワインを作っていくという中で、どんどんどんどん 今の形というか 自分の後押ししてくれた存在が ラ・ビアンカーラのアンジェリーノ マウレ と言えると思います。
彼がいたおかげで 大地に触れ合うこと、大地に敬意を払うような農業、そういう形のぶどう栽培のあり方、醸造に関しても最後の一押しみたいなものを、ブドウを育てて、 愛情を込めて作ったぶどうをワインにすることまでが、大事なんだっていうことに関して アンジョリーノの一押しがあったことによって 今の自分があると思います。
自分がぼんやりと 抱いていた夢や、やっていてみたいという欲が、完全に情熱に変わった瞬間があったような気がします。だからもっと前に進みたい もっと知りたい。
自分の土地っていうのはある 意味 液体自体が 雄弁に自分たちのテロワールを語れる、すごい偉大なポテンシャルがある土地だということに気づいたので
それを液体の中に表現するのを目標に情熱が生まれたことで始めました。ですので、ないです。

Q2.この道を歩むと決めた時、家族から反対されたと聞きました。その後、どのように理解を得られましたか?(8:01~)

A2.一番反対したのが、もう亡くなっちゃったんですけど、おじさんでした。おじいさん からすれば ブドウ栽培なんて一番儲からない、そんな仕事 やるもんじゃねえって感じでかなり 反対してたんです。
とある時から反対し無くなったんですが、それは 太田が始めてセラーを尋ねた時らしいんです。
当然 イタリア人でもない 超アジアの面立ちの人間が 降り立つわけです。 そうすると、 おじいさんがあいつは何だ みたいな感じで 訝しく見ていた。「いやひさとって言うんだけども、日本人のワインのインポーターだ」というと、「日本ってどこだ」 「中国の向こうの島だよ」、「インポーターってなんだ」「 日本ってあんまりワインが作られてないから、ワインを飲みたい人の為にイタリアとかフランスからワインを運ぶ人の事だよ」 でこいつは何しに来たんだみたいなやり取りがあり、
「僕のワインを買いに来たんだよ」って言ったら、その後から 訝しく見ていたところから一切 反対しなくなった。 そんな遠いところからいるんだ、っていうのを確認してから、おじいさんからは何も言われなくなったというのが一つ。

で2つ目が、当然 両親からの反対というか、 本当にそんなことやって大丈夫なのか 親心からだと思いますが、心配になった。 ただそれも、彼は、ヴィナイオッティマーナに4回とも全部 参加してくれてるんですけども 、その度に、お父さん連れてきたり叔父さんを連れてきたリ、 お母さん連れてきたりしているわけですけれども、当然のことながら いわゆる 近しい 肉親が ダヴィデのワインがどのように飲まれてるのか 、どういう風にダヴィデが見られてるのか 、傍から見るわけですが、 皆さんの暑い リアクションと盛り上がってる感じとかを見て、 結構うちの息子が造るワインって日本で愛されてるのだなーっていう確信というか、 目の当たりにして、 ワイナリーにもいろんな国の人が訪ねに来て 、 称賛をしてくれて買ってくれて、結果が出てるということを目の当たりにして、さすがに今は信じてくれていのではないでしょうか。

Q3. 今後、ガルガーネガ、メルロー、ドゥレッラ以外を植える予定はありますか?(14:07~)

A3. まず考えていないです。 新しいもし、ぶどうの木を植える機会があったとしても、基本的にガルガーネガを選ぶのではないか。 やっぱり カルガーネガこそが 自分の土地を余すことなく表現できる葡萄品種 だと考えていますので、それ以外を基本的には植えるつもりはありません。
メルロー に関しては、黒ぶどうはもともと 栽培されていなかった土地 っていうこともあって 土着品種 っていうのもではないです。その中で周りの結果を見てもメルローっていうのは多少 自分たちの土地を体現できると 葡萄品種 だっていうことが、ラ・ビアンカーラとかいろんな人のを見て思ったのでメルローは植えてます。
これが唯一の土着品種ではないという意味では 例題に当たるかもしれません。
ドゥレッラですけれども L1っていう微発泡性のワインを作るようになった時に、発泡性の物に関してはやや酸があった方が ワインとしての風格が出ると考えた。

当初はドゥレッラのぶどうを信用のおける農家から買ってたらしいんですね 。 買うのもいかがと思って、自分で植えるようになったということで ドゥレッラも 栽培しています。
今は フリッザンテというか、 微発泡性のワインしか作っていませんけれども、 もしかしたら、いつかその ドゥレッラでメトド クラシコというか、いわゆるスパークリングワインも作るという それこそ ダニエルがやっている様な事をやるかもしれませんよね。

Q4. 太田がワイナリーを訪れた際、ダヴィデが15歳の時に造ったレチョートがあったとの事ですが、イタリアでは、その当時は16歳から飲めたらしいですが、何歳から何が楽しくてその道に入ったのか?なにが彼を駆り立てるのか?(18:27~)

A4. これはいつも思うんですけれども イタリア人にイタリアは何歳からお酒を飲めるんですか って聞いてちゃんと答えられる人っていないんですよ。 法律を知ってる人って。 だけどそれが意味するということは、どれだけ ワインがいわゆる 食事の一環だったということか 、ワインを水代わりに飲むというか ビールを水代わり飲むというか、僕たちやや茶化していってますが、本当に水代わりだったんだろうな っていうのがそんなことからもわかる。それから多少は、アルコールに関しては害があるってこともあって多少規制するようになって、今確か イタリアだと16歳だと思うんですね。 醸造酒を飲んでいいのが16歳、蒸留酒をカクテルも含めて、もう少し上とかあるんです。
で、ダヴィデは本格的に何歳から飲み始めたのか聞いたら、そんなの言って大丈夫かなって言いながら、一応、ここ日本だから大丈夫だよ、と聞いてみたら13歳から14歳かな。
そんな不思議なことではないって、ことの現れだと思います。当然お酒飲み始めるときは、皆さんもそうだと思いますが、甘いお酒から始めますよね。だから、彼もレチョート、陰干ししたブドウで造った甘いワインを嗜むことからワイン人生が始まったらしい。父親とかおじいさんが造ってるの見ても、ブドウジュースがものすごい濃いブドウジュースの味わいものすごい魅力的でしたし、それがアルコールに変わって甘みが多少落ちるけど、飲み心地がむしろ上がる液体にも、魅了されていって、覚えてないですけど、2003年くらいが多分最初に造ったワインだと思うので、やっぱり、13歳か14歳くらいの時から、自分でお父さんと一緒にワインを造るようになった。

④まとめ

10代でワイン造りをやると決めたのには、凄い決断力だなと思います。実際20年近く携わったてきて、現在も変わらずワインを造っていて、心から楽しんいるように見えました。話を聞いていると物静かですが、ワインの事になると、胸の奥に秘めている、熱いものを感じました。いつかドゥレッラで造ったスパークリングワイン飲んでみたいです。(担当:宮内)
  

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