toggle
2007-02-25

ラ ビアンカーラ その1

biancara_001_01

やっと我らが先生、アンジョリーノ・マウレの登場です!

彼との間には語りつくせないほどのエピソードがあるので、書き終わるのにどの程度かかるのか想像もつきません。彼と出会いがなかったら今の僕は絶対なかったと思いますし、彼のワインを飲み、彼と畑やワイン造りの話をし・・・これを何年も続けたことが、僕の今のワイン観を支える大きな土台となっています。そして、この間の彼自身の醸造面でのレベルアップ(よりリスクを冒せるようになった)の時期と重なったことは歴史の目撃者的な感覚も感じられて本当に本当に光栄な気持ちでいっぱいになります。

彼との取引はヴィナイオータ史上例を見ない形で始まりました。それまで僕は必ずワイナリーを直接訪ねていって話を十分したうえで取引を開始するようにしていました。今でもおおよそそのルールの下に動いていますし、そうでない場合も“買おうと考えているワイン(ヴィンテージも含めて)”は少なくとも飲んでから決めるようにしています(極めて当たり前ですよね)。

ですが彼の場合は、恐らくSassaiaの1996しか飲んだことない状態で、電話をし、プライスリストを送ってもらって、そこに載っているワインをとりあえず一通り少量ずつですが注文してしまいました。唯一飲んだことのあるSassaiaに関しても当時は??な印象しか持たなかったのにもかかわらず、です。

じゃあなぜ始めたのか?

とある人の強力な”やれやれプッシュ”に乗っちゃっただけなんです。それが誰を隠そう(結構この言い回し面白くないです?)、自然派ワインの宝島、青山F、シェフのろっしさん、またしても彼だったんです。

ろっしさんとアンジョリーノの出会いは10年以上前にさかのぼります。話は一度飛びます。まずはろっしさんとダル・フォルノの出会いから。

本で見たダル・フォルノなるアマローネの造り手に興味を持ったろっしさんは訪ねていきます。当時のダル・フォルノはイタリアでこそ3ビッキエーリの常連になりつつあるライジングスターとして、その名声は確固たるものでしたが、日本(少なくともインポーターの世界)では知られていない存在でした。彼のワインを気に入ったろっしさんは彼と話をし、ワインを分けてもらえることになりました。そしてダル・フォルノのワインは、ろっしさん知り合いのインポーターに輸入代行してもらう形で日本に初上陸をしたのでした。

ダル・フォルノに“ヴェネトで君が面白いと思う造り手を紹介して”とろっしさんが頼んだところ、名前が挙がったのがアンジョリーノ(当時はダル・フォルノとアンジョリーノ、付き合いがあったんです)だったのです。で、アンジョリーノを訪ねたろっしさん。いろいろワインを飲ませてもらっているとアンジョリーノの友達が来て、更に飲み始めた頃、アンジョリーノが持ってきたワインがPico1992のマグナム。だけどこの頃には旅疲れと酔いからふらふらになっているろっしさんを見て、ろっしさんのその晩泊まるホテルを尋ねると、Soaveの山奥の方。そんな状態じゃ絶対危ないから上で少し休んだらということで、休もうとするろっしさん、しかしその前に“そのPico1992、絶対取って置いてね”と。このワインがろっしさんがアンジョリーノのワイン将来性を確信させたそうです。

しばらくしてそろそろいいかと考えたアンジョリーノは、“おーいF(ろっしさんの本名)、コーヒー淹れたよ。降りてくれば?”。ろっしさん“うん”。一向に降りてこないろっしさんをアンジョリーノが見に行ってみると、寝ていたソファから起き上がり、座った姿勢で脱いだ靴を再び履こうとして靴を持った状態で果てている(再び寝ている)ろっしさんを発見。アンジョリーノは今でも“あの時Fと俺が友達といえる状況になっていたなら、ためらわず彼のかばんの中からカメラを取り出して写真を撮っていたんだけどなぁ”ってよく言ってます。

そしてろっしさんはろっしさんで、僕に何回となくしつこく言ってくるのが、“起きたらPico92、全然なかったんだよ。取って置いてねって言ったのに!”。

アンジョリーノが初めて知り合った日本人は彼にかなり強烈な印象を残したのでした。

で、ろっしさんは彼の友達が当時ミラノの駐在員として働いていた会社(I社)に頼んでアンジョリーノのワインを輸入してもらい、そのワインを僕が飲ませてもらったという次第。この当時のアンジョリーノはなかなかに売り困っていたようで、それを少しでも助けられればという意味合いと、僕に絶対扱ってもらいたいというろっしさん、たっての希望により、I社以外に僕もやることになったのでした。

最初に仕入れたのは、
I Masieri 1998 300本
Sassaia 1998 300本
Pico 1997 300本
Recioto 1996 120本

これだけを売るのにも凄い時間がかかりました・・・。こう書くと全部売ったように聞こえますが、Pico97は60本近く取って置いてあります、ふふふふふふ。最近ようやく開いてきたかなって感じ。

昔のアンジョリーノのワインはリリース当初あまりにも硬くて、そのポテンシャルを見極めるのが非常に難しいワインだったのですが、最近ではリリースすぐからザクザク行けるワインになったと思います。Sassaiaでいうと2001、Picoだと2000あたりからその硬さが取れてきたと思います。この差はボトリングのタイミングにあるとアンジョリーノは説明してくれました。 以前のアンジョリーノは最小限度の酸化防止剤添加で済ますために、ボトリング前に、ワインが還元状態に落ち込んだ状態を見計らってボトリングを行ってたそうです。

Picoだと分かりやすいのですが、Picoは樽醗酵、樽熟成のワインです。澱が還元臭を出さない限り樽の移し替えなども行わず、静置させておきます。そしてボトリングする前に、澱引きとアッセンブラージュの意味も兼ねてステンレスのタンクへと移し変えます。そこで3-6ヶ月置いておくのですが、木樽という呼吸する容器の、ある意味酸化的な状況に慣れ親しんだワインがステンレスの密閉容器の中に入れられしばらく置いておかれることで(温度が低いことも要因・条件の一つ)、還元状態に陥るようで、その時期にボトリングを行うと、ポンプによるボトリング機械までの移動という酸化的な状況でもワインを目覚めさせることなくボトルに詰めることが出来るらしいのです。

1998年のような比較的小さなヴィンテージならまだ良いのですが、偉大なヴィンテージでこのようなボトリングを行うと、開くまでに物凄く時間がかかってしまいます。その最たる例がPico1999です。このワイン、最近になってようやく美味しくなってきましたが、ほんの1-2年前まで、色も薄いし味もミネラル由来の硬質な印象しかなかったんです。この99年のポテンシャル(将来性)に気付けちゃった僕は(2001年ごろには僕もちょっとは成長していたようです!)、他のお客さん(イタリアでは特に)には不評だったということもあり、1500本以上仕入れてしまいましたし個人的にも120本以上買っちゃいました!、とちょっと自慢でした。

ボトルに入ったこの99年を初めて飲んだ時、このワインが持つ硬さとその理由についてアンジョリーノから説明してもらい、“だったらあまり還元的な状況になる前にボトリングした方がいいんじゃない?別にそうしたからってボトルで3日しか持たないワインになるわけではないだろうから。”と僕が意見し、彼もそのように考えてたようで、次の年からステンレスに移してからは早めにボトリングするようになったようです。

話を元に戻して、
Sassaia98に関しては僕もあんまり取って置いてなく、あと2本程度。これが今素晴らしく美味しい。もっと取って置けば良かった・・・。
Recioto96は美味しいは美味しいのですが、この当時のReciotoは甘ったるく感じちゃうんですよね。実際そうなのかも知れないですし、アルコールが低く、渋味とかもないので平坦に感じてしまうのかもしれません。個人的には1999年とか2000年が好きだなぁ。そうだ、次回はReciotoについて書きますね、98年を境にそれはもう劇的に変化(進化)を遂げたその秘密についても・・・。こうご期待!

関連記事