toggle
2010-03-25

造り手紹介文  カーゼ コリーニ(2010.3筆) 2009/4/17

朝食後、コスティリオーレのロレンツォ宅へ。バルラの畑を見に行く。
c0109306_1035136

5-10年に1回程度、ブドウの株の周りの土を起こしてあげるらしい。畝の所などは完全に不耕起で、雑草を年2-3回刈るだけ。
c0109306_10411320

バルラほどの高樹齢の畑での最も重要とされるのは、ブドウ樹1本1本に少しでも長生きしてもらうこと。上の写真のように、樹液が通らなくなって久しい場所は、ブドウ樹の一部でありながら枯れた状態とも言えるので、そこに湿気とか虫とかが居付くと腐るというか、土化してゆくので、取り除く必要が出ます。剪定も、ちゃんとブドウをつけてもらえるよう、そして次の年への保険の枝も考慮に入れつつ、株ごとに見極めながらやらなければなりません。他の仕事はともかく、剪定だけはロレンツォ一人でやるようです。

ロレンツォが良く使う言葉に”Sostenibile(持続可能)”というのがあるのですが、いい言葉だなぁといつも感心してしまいます。

僕自身、環境問題には人一倍位には興味あるほうだと思います。ですが(だからか)、“地球に優しい”という言葉が嫌いです。エコの世界に蔓延する素敵な言葉の数々は、地球目線で見たらなんともおこがましい、人間風情が何言ってんだ的なものばかりで、問題の本質を見据えていないように思えちゃいます。エコカーやエコ電化製品にしても、まだ十分に使えるものを捨ててまで買い換えるんだとしたら、全く持って意味ないですよね?

そもそも“地球に優しい”ではなく、正しくは“ヒト(の存続)に優しい”と言うべきなんじゃないでしょうか。僕たちがどんなに地球を汚そうが、僕たちヒトがいなくなり、100万年も経てば十分にリセットできるでしょうから。温暖化だなんだと叫んでみたところで、僕たちヒトが生き辛そうな世界になるだけで、他の生物はその環境の変化にアジャストすべく進化してゆくのでしょうし、地球の歴史自体そうやって進んできたのですから、僕たちが地球の心配をするというのはちょっと違うんじゃないかと。

むしろ種(しゅ)の本能として、絶滅を拒否しているんだと認識すべきで、その認識の元に立って何をすべきなのかを考えてゆかねばならないのではないでしょうか。

ヒトは、種として生存していくということ以外に、文化や文明などにも意義を見出した唯一にして奇特な動物であり、それを謳歌している。僕だって、美味しいものが好きだし、音楽も好きだ。ヒトは地球に対してかなり暴力的(反自然とも言えそうな)なことを簡単にやってのけるが、あくまでも“自然界”のメンバーのひとりである。で、地球のご機嫌を伺いながら、ヒトであることをできるだけ長く続けていき、同時に文化文明を享受し続けるためにはどうすればよいのか?それには“出来るだけ~しない”という考えをいろいろな場面に持ち込んでいくことだと僕は考えています。

ロレンツォの言う、持続可能な~とは、まさしくそれにあたるかと。

彼の場合、畑でトラクターを使わないので、土が潰れない。潰れないから、やわらかいまま、なので土を改めて耕す(保水性を高め、空気を含ませるために)必要がない。雑草は刈ってそのまま放っておく事で、自然に堆肥化する。この堆肥は、多く(収穫量)を望まないのなら、ブドウにとって十分な栄養分となる(森に肥料が必要ないのと同様)。微生物が雑草を堆肥化するために活動した際に、結果空気も十分に含まれることになるので、土壌がやわらかいままになる。雑草という餌があるので、微生物は増える。微生物が増えれば、他の生物にとっても同様に生き易い環境になる。そこに自然界のバランスが生まれる。そのバランスさえあれば、極端に害虫が出るということはない。

セラーでも同様。彼は醸造からボトリングまで、酸化防止剤を一切使用しませんが、それはただ単に使用する必要がないから使わないだけで、それを実現するために、先人の知恵に科学的理由付けをしたテクニックは駆使しますが、そのテクニックを実現するのに特別なテクノロジーや機械・設備が必要なわけではありません。エネルギー消費少なく、無理がない。あまりにも理にかない過ぎていて笑っちゃうくらいです。

ブドウは完璧なものだけをセラーに持ち込む。そうすることで、バクテリアに対する過剰な心配がなくなるので、醗酵の初期段階に酸化防止剤を使う必要がない。除梗後圧搾されたブドウは100年以上使っている大樽に入れられ、醗酵を促す。セラーも樽にもブドウの皮にも酵母はたくさんいるでしょうから、培養酵母を使う必要がない。どんなに気温が低かったとしても、醗酵は1日もすれば始まりますが、3-4日は果帽に触れず放置。こうすることで、好気的な微生物、嫌気的な微生物とも各々が住みやすい環境で培養される。これがロレンツォのように糖度の高いブドウでも最後まで醗酵を進められる原動力になる。果帽が空気にさらされるのはバクテリア汚染や酸化の危険があるということで醸造学的にはタブーとみなされているので、できるだけ早くモストの中に沈めてあげるべきと言われている。じゃあなんでロレンツォは3-4日置いておけるのか?樽上部は軽くふたを閉じているだけなので、樽の容積以上に発生したCO2はふたの間から逃げるが、樽内の空気は基本CO2がメインとなる(ナチュラル・マセラシオン・カルボニック!)。なので、酸化のしようがない。

長い醗酵・マセレーション後、ワインはフリーランで出てきたものだけ使用する。その際、ヴィナッチャがスポンジの役割を果たし、澱をせき止めてくれる。澱がそれほど混じってないワインは極端な還元には陥らないので、澱引き・樽の移し変えを必要としない。樽の移し変えは、還元に陥りそうなワインに酸素を与えるという意味もあるが、酸素は酸化の引き金となる物質でもあり、酸化防止剤を使わず醸造・ボトリングする造り手にとっては諸刃の剣である。

では僕の仕事・生活の上ではどうでしょうか?

僕世帯は、電気・ガスをできるだけ消費しないよう、暖房は薪ストーブだったりしますが(エアコンもありません!)、薪ストーブ導入にはもうひとつの理由がありました。エアコンによる暖房は、本当に気温を上げてしまいますよね。それこそ20度は優に超えるのではないでしょうか。に対して、薪ストーブの暖気は輻射熱、気温はそれほど上がりませんが、体的に寒くは感じません(ストーブから遠い所は寒いです!!)。良く赤ワインは室温でなんて言いますが、それはあくまでもヨーロッパの石造りの建物の、暖炉やストーブなどの暖房下での気温なわけで、それを実現するために、つまりワインを普通に美味しく飲むために導入したという理由もあったりします。

仕事面では、倉庫が半地下(洞窟状とでも言えばいいのでしょうか、倉庫の上に土が被っています)なのも、できるだけエアコンを使わずに温度を一定にするためだったりします。

ロレンツォやマッサヴェッキアのワインなど、僕が思う“偉大”という領域に踏み込んでいるワイン、味わいそのものがまずもって好きなのですが、その味わいを実現する秘訣がどうやら“できるだけ~しない”という考え方らしい。その考え(アプローチ)は全くもって持続可能なスタイルである。そしてさらに深く共感も覚える。なぜならそこにはヒト存続へのヒントが隠されている(いや、隠れてない、答えそのものです)。

に対して、様々な培養酵母だの、新樽100%、最新の設備を導入、ミクロオキシジェーションなど(挙げてったらキリありません!!!)など、多くの消費を促され実現したもので、結果エネルギーも大量に消費されていて、悲しいことにできるワインそのものに内面性、個性が伴わない。

人の手をできるだけ加えずにという考え方で造られているのにもかかわらず、恐ろしく個性的(そして文化的)なロレンツォやマッサヴェッキアのワイン。高度な文明社会が、“創造してやる!”位の傲慢な意気込みをもって造る無個性(非文化的)なワイン・・・。ヒトがヒトらしく生きていても、自然と折り合いがつく点はあるが、多くの利害が絡むところでは折り合いはつかないということなんでしょうね。

僕がうちの先生方、彼らのワインを愛してやまないのは、こういうことにも気づかせてくれたからではないかと。そして、1日でも長いヒトの存続を願い、少しでも多くの人が彼らのワインの中にある答えに気づいてくれる事を願いつつ、今日も明日も僕が美味しい、本物だと思うワインを紹介していきたいと思っているのでした。

関連記事