Radikon サシャへの質問コーナー!
ヴィナイオータGMの岸本です。
サシャが来日したのは2019年の11月ですから、あっ!という間に2年近くが経ちました。イベントがなくなったこともありますが、コロナが始まる前から会社の組織作りに全てのパワーを使う決意をしておりましたので、つくばで過ごす時間がこの10年間の中で最も長い期間となりました。
溜まりに溜まっていた仕事の中でもさっさとやるべき内容でしたが、いよいよ造り手たちの情報の整理が始まりました!実はアールペーペやバルバカルロのインタビュー内容も過醗酵気味に放置されており、、やらなきゃではなく、やりますよ(誰に向けての宣言?)!!
まずはトップバッター!ヴィナイオータと共に歩んだ15年間、どちらかが諦めてしまったら、今のような状況にならなかったと思います。「信念を貫く!」とは一体どういうことかをナチュラルワインの世界で働く全ての人に見せてくれた造り手。
そう、Radikon(ラディコン)です!
来日した生産者の資料を、造り手から聞いた話を加えイベント終了後に全て書き直す作業、各会場で出た質問を改めて文章に起こす作業、実はラーチノの来日くらいからちゃんとやってはおりました(真面目)。でも、、完成したのにホームページにアップしてなかったんですよね。。。何をしているんでしょうか。
ということで!是非たくさんの方に見ていただきたいと思い、アップさせていただきます!
2019年11月にラディコンの現当主サシャが来日した際に、金沢、岡山、東京、つくばで開催されたセミナーの中で、参加したお客様(プロの方、一般の愛好家の方問わず)がサシャ本人に質問したものを回答含め、書き留めておいた内容となります。
サシャはよく喋る方ではないので簡潔な答えではありますが、選んだ言葉の中に、サシャとスタンコの関係や家業に対する想いが滲み出ていて、ラディコンを愛してくださっている方にとって非常に面白い内容になっています。
ツアー中のサシャのお茶目な写真も交えてお読みいただければと思います!
~サシャ自身のこと~
Q1:「小さい頃から家業を継ぐつもりでしたか?」
A1:父は強制するのを嫌う人でしたし、「ワイン造りというのは自分自身を投げ出す必要がある」と常々言っていたので、私に押しつけてやらせても意味がないと感じていたのだと思います。そんな中で2度、自分自身で家業を継ぐことを強く意識したときがありました。1度目は、14歳の時で醸造関係の学校に行こうと決めたとき。2度目は18歳のときで、家の近くで条件の良い畑が売りに出たときのことでした。父から「お前は将来うちのワイナリーを続けていきたいと思っているのか?お前がやるのなら畑を買うつもりだし、今決められないのなら今回は買わないつもりだ。」と言われ、「やりたい」と伝えました。父からの「なんとなくヴィニェロン(ブドウ栽培兼ワイン醸造農家)になるな。自分で選んで自分で決めろ。」というメッセージだったと今は思っています。
Q2:「スタンコから何を受け継いで、これから何がしたいですか?」
A2:親子関係の中で沢山のことを教わったと思いますので、はっきりと何を受け継いだという明確な印象は今のところありません。自分はこれから長い間ワイナリーを続けていくことが重要だと考えていますので、現在特に何がしたいと考えていることはありません。
Q3:「ラディコンというワイナリーをお父さんから引き継いでプレッシャーはないですか?」
A3:全くプレッシャーがないかと言うと嘘になるかもしれませんが、自分はこの仕事を天職だと思っています。この世の中で最も素晴らしい仕事であり、私に新しい沢山の出会いをくれました。特に世界中の人と会い、話すことができることは自分を成長させてくれます。
Q4:「お父さんから引き継いで変わったことは何ですか?」
A4:15歳の頃から父と働いてきたので、多くのことを教わったと思います。父が仕込んだワインで実際まだリリースされていないものもありますから、ラディコンとして何が変わったかと言われると、、、
自分一人になってもちろん変わった部分も変わっていない部分もありますが、父は常に変わりながら進んできたと思います。父と同じようなものは造れませんし、その必要はないと思っています。そもそも違う人間ですから。自分も考え悩み、父のように変わりながら進んでいけたらと思っています。
Q5:「スタンコがマセレーションを始めたとき、サシャはどんな風に思っていた?」
A5:1995年、自分は13歳でした。原付を買ってもらったことで自分の生活範囲も広がりそのことばかりを考えていたように思います(笑)。ワイナリーの一部の仕事を手伝っている中で父のことを盲目的に信じていたので、マセレーションを始めたことに関しても特に疑いはありませんでした。元々エネルギッシュな人でしたが、これが自分の進む道だと分かったときの父の目、全身からエネルギーが溢れキラキラとした姿を見て、光(オーラ)を持った人だと思いました。必ずやり遂げると思いましたし、母も僕もそれを止めることはできないと感じました。
Q6:「Sラインを造った理由、実際にやってみてどう思いましたか?」
A6:それまでも父の仕事を手伝ってきたわけですが、自分の責任で一つのワインを造り上げてみたいと思う様になりました。自分的には2006年から造るつもりでしたが、父の説得に3年かかり(笑)、2009年から実際に造ることになりました。
本格的にワイナリーを手伝うようになってから、ラディコンのワインを飲んでくれる人が2つのグループに分かれることに気付きました。1つは、マセレーションを始める前から飲んでいた人、もう1つは2002年以降のヴィンテージから飲み始めた人です。前者の中には2002年以降のワインを飲んで「ブドウ由来の果実味がなくなってしまった」と感じ、がっかりして誤解したままラディコンのワインを飲まなくなってしまう人がいるのではないか?と考え、Sラインが果実味のあるラディコン入門編となるのではないかと思い、造り始めました。そこには自分の中に、父の歩んできた道(97~01年当時に行っていた1週間程度のマセレーション)を自分でも体感してみたいという思いもありました。今後はSラインを中心に生産量を増やしていき、2018年以降のヴィンテージは全体のワインで5~6万本程度の瓶詰めを目指しています。
Sラインの生産量が増えることで、皆さんはブルーラインの生産量が減っていくのではないか?と心配されるようですが、Sラインの生産量を増やす理由は「ブルーラインの価格を上げない」ためですので、今後ももちろんブルーラインを造り続けていきます。ブルーラインがなくなってしまったら、Sラインも意味がなくなってしまいますから。
Q7:「サシャがワインを好きになったきっかけやシチュエーションを教えてください」
A7:生まれた時からずっとワインを造る環境で育ったので、自分的にはそういうタイミングがいつなのか分かりません(笑)。
Q8:「好きなワイン生産者はいますか?」
A8:幸いなことに近くにすごい造り手たちがいるので飲むワインに困らなく、好きな生産者を挙げろと言われると難しいのですが、、ヴォピーヴェッツやカステッラーダ、ヴァルテルムレチニックといった身近な造り手は考えるまでもなく素晴らしい造り手だと思います。それ以外で言うと、、グラヴネルのリボッラ99を飲んですごく感動した記憶があります。パラスコスの息子さんは自分と歳も近く交流が深い造り手です。あとはダーリオ プリンチッチのビアンコトレヴェッツの古いヴィンテージのものに感銘を受けたこともあります。
Q9:「ワインを造るときに大切にしていることは何ですか?」
A9:「肉体的にも精神的にも込める」ことだと思います。情熱であったり、心であったり、人によっては覚悟、魂という言葉になるかもしれません。そういう気持ちがあれば、自分がワインに必要だと思っていることが、何かしらの形でワインに表現されると自分は考えています。そして毎ヴィンテージにしっかりと込めることで、自分のエネルギーを費やして得た経験に本当の意味ができてくるのかもしれません。あとは「一つのところに止まらない勇気」も大切にしていることの一つです。
~地域のこと~
Q10:「オスラーヴィアはどんな街ですか?」
A10:オスラーヴィアは人口200人の小さな街です。オーストリア、スロヴェニアと国境を接しており、第一次世界大戦のイソンゾの戦いでは主戦場となりました。当時はオーストリア領でイタリアではありませんでしたが、その前も500年間オーストリア領でしたので、イタリアである時間の方が短いため、街中の道路標識はイタリア語とスロヴェニア語で表示されています。海も近く、山も近いため、どちらの食べ物も食べます。
Q11:「オスラーヴィアの年間降水量を教えてください」
A11:ゴリツィアの年間降水量は1年あたり約1200mmですので、オスラーヴィアも近い数字だと思います。雪は1年で1~2回程度です。雨が少ない地域ではないので、ベト病、うどんこ病などブドウが病気にやられる可能性は常にあります。でも自分自身はそのような病気はある程度普通にあって良いと考えています。自然と共生することを大事にしています。
防病に関しては、とにかく畑を観察することだと考えています。どこに水が溜まりやすいのか?自分の畑で病気が出やすい弱いところを知っておくことが重要で、パーセル毎の個性を知り、それを受け入れることが防病に繋がるのではないでしょうか。
~ブドウのこと~
Q12:「スロヴェニアの畑はどのくらいの広さがあり、どのブドウ品種が植わっていますか?」
A12:現在スロヴェニア側には、2.8ヘクタールの畑があり、リボッラ、ピノグリージョ、フリウラーノ、メルロー、ピノネーロが植えられています。イタリアには7つの区画があり、合計で12ヘクタールの畑があります。
Q13:「リボッラ ジャッラのどのような部分がご自分たちの土地と合っていると思いますか?」
A13:土壌、天候、ブドウ品種と様々な要素から総合的にリボッラが合っていると感じています。そもそも土着の品種であるということは、その土地で生まれ、その土地で育ってきたことを意味しており、適合してきた証のようなものだと自分は考えています。そして私たちの畑はポンカと呼ばれる沖積土壌(河川が運んできた泥灰と砂が堆積した土壌)で、鉄分と石灰を多く含み、ブドウに生きた酸を与えてくれるため、果皮が分厚くタンニンが多いリボッラを栽培することで、酸と渋みという2つの重要な熟成のポテンシャルを備えるのだと思います。またリボッラが、シャルドネやソーヴィニョンのようにアルコールが高いワインにならない点も合っていると感じる点です。
Q14:「メルローの樹齢が知りたいのと、赤はスタンコの趣味とはどういう意味ですか?」
A14:自分たちの畑のメルローは1997年に植えられたので、今年(2019年)で22年、借りて栽培しているメルローは樹齢45年となります。自分たちは白ワインの造り手ということがあり、黒ブドウは全体の1割程度しか栽培しないため、樽と瓶での熟成を思い切り長くしたりと、自分の思う通りの仕込みを父の好き勝手にできたので。
Q15:「収穫のタイミングはどのように決めますか?」
A15:自分で実際に食べてみて収穫の時期を決めます。もちろん収穫前にブドウを分析にかけ酸度を計測しますが(糖度は年によって違うので計測しない)、それほど数値を重要視していません。ブドウの皮のタンニンの質がソフトで、種の周りにじわっと水分が残っている状態ではなく、種がカリッとした食感であることが完熟の証だと思います。
Q16:「ブドウを栽培するにあたり、注意していること、苦労していることはありますか?」
A16:ブドウの栽培において全ての要素が大切なので、ここで1つ挙げるのが難しいのですが、、自分たちの地域は雨が多く湿度が高いことに加えて、気温も高いため、ベト病、うどんこ病などのカビの病気とは常に隣り合わせな状態です。極端な気候の中で2つの病気がどうやったら起きないか?そこは注意しています。
~ヴィンテージのこと~
Q17:「2002年はどんな年でしたか?なぜその年にマセレーションを長くしたのですか?」
A17:2002年は雨がちな年でした。かなり収量は減りましたが、とんでもなくひどい年はもっとあるので、そこまで絶望的な年ではなかったと記憶しています。2002年は一部のリボッラを使って1年間のマセレーションをしたわけですが、理由としては実務的な部分が大きく働きました。暑い時期に皮や種を引き上げ圧搾を行うと、微生物が動くリスクが高くなってしまうので、本来真冬か比較的涼しい時期に圧搾を行います。マセレーションの期間を6か月以上長く取ろうとすると気温が高い時期に入ってしまうため実質的に絞れなくなります。特に翌年の2003年は非常に気温が高い時期が長く、涼しくなるのを待った結果、マセレーション期間が12か月となりました。今は2~4か月のマセレーションで、自分たちが置かれている状況を鑑みてベストな期間だと考えています。
Q18:「2012年、2011年、2010年のヴィンテージで天候や醸造の違いを教えてください?」
A18:2012年は雨が多い年でした。収穫時も土が柔らかかったことが印象に残っています。2回暑い日があり、それは2011年の最高気温よりも暑い日でした。
2011年は平均して気温が高かったにも関わらず収穫の翌日から一気に気温が10度近く下がったため、醗酵がなかなか進まず、濃いブドウで糖分が高いためエキスの抽出に時間がかかり、アルコールが高いことから熟成にも時間がかかり、、とワインにとっても苦労の多い年となりました。
2010年は雨が多い上に、9月の早霜でリボッラに貴腐が付き、収量が3割減りました。
~醸造のこと~
Q19:「シャルドネとソーヴィニョンを一緒に仕込んでいますが、別々に醸造しない理由がありますか?」
A19:はい、一緒に仕込むことに意味があると思っています。1つは液体の親和性の部分で、一緒に醸造したワインと、別々に醸造したものを最後にブレンドしたワインとでは、後者の方が2つの液体がなじむまでに時間がかかってしまうこと。2つ目は、皆さんもご存じの通りソーヴィニョンはアロマの強いブドウですが、モストの状態でも非常に香りが強い品種です。アロマの少ないシャルドネと一緒に醗酵を行うことで、ソーヴィニョンのアロマが薄まり、その分エキス分を引き出すと自分は考えています。
Q20:「RSについて、ピニョーロとメルローを混ぜる理由を教えてください」
A20:最初は自分たちの土地でメインで長く栽培されてきた品種のワインを造ろうというのが動機になったわけですが、ピニョーロという品種は非常にタンニンが強く、単独でワインにするには難しいと感じた父が、1週間早く収穫したメルローを混ぜたところ良い結果が出たため、混ぜることになりました。
Q21:「Osalavjeっていつからピノグリージョ入ってないんですか?」
A21:2008年からです。父スタンコが植えたシャルドネとソーヴィニョンの収量が多く、どうしてもオスラーヴィエの生産量が多い状態が続いていましたが、2009年以降Sラインとしてピノグリージョを単独でボトリングする形となったこと、シャルドネの多くをスラトニックにしたことで、オスラーヴィエはシャルドネとソーヴィニョンのワインとなり生産量が減り、同時にリボッラの生産量が増えてきたので、ワイナリーの方向性と実際のブドウの収量のバランスがとれてきました。
Q22:「ステンレスタンクと木桶にはどのような違いを感じていますか?」
A22:ステンレスタンクは「冷たい素材」という印象です。外気温が高ければワインにもその熱を伝え、外の影響を受けやすい(電気も通す)ナーバスな容器です。ステンレスタンクの中で作業しているときに外から叩くと、音や揺れなどがダイレクトに中に伝わってくることからも振動が伝わりやすいため、ワインが中に入った場合、ワインも人間と同じで居心地が悪いのではないでしょうか(笑)。それに対して木の容器は温かく、熱や電気、振動が伝わらないため、ワインもリラックスするのではないでしょうか。
Q23:「色々な仕込みを試したということでしたが、失敗したワインはどんなものですか?」
A23:失敗というほどのものでもないかもしれませんが、ヤーコットの2000年はリリースせず自分たちで飲みました(笑)。当時澱引きしない仕込みを試していまして、ビネガーの雰囲気が強くなりました。皮と種は取り除いてましたが、シュールリー状態で醗酵の続きと熟成を行っていたことが原因と考えられ、自分たちにとっては良い結果とはなりませんでした。
Q24:「果皮を長く漬け込むと最終的に皮はどうなりますか?」
A24:醗酵の初期は、皮は二酸化炭素と空気を含んで風船のように膨らみ液面に上がってきます。その後ピジャージュすることで皮が潰れ下に沈んでいきますが、アルコール醗酵が終わってしまえば桶の底に沈んだ状態となります。このとき液体内のエキス分を付着した状態で沈むので、ナチュラルなフィルター代わりになります。6~7か月ほどマセレーションをしていくと、季節的(3~4月)にも気温が上がってくるので、開放的(皮や種を取り除き、容器を移し替える時)になった際に、微生物にとって活動しやすい状態となり、二酸化硫黄を添加しない自分たちにとってはリスクが高まる瞬間となります。そのため今ではなるべく寒い時期にブドウを絞るようにしています。
Q25:「世界中が年々暑くなっていると感じますが、サシャさんは収穫や醸造に関する影響を感じますか?」
A25:1980年代当時のフリウリの気候は、今現在ドイツくらいまで北上してきていると考えられています。イギリスでワインが造れる状況を想像もしていませんでしたが、今のところ幸いなことにそれほどの問題を感じず、毎年のブドウやワインと向き合い、集中して収穫や栽培ができているように思います。
~ワインのこと~
Q26:「イタリアで瓶詰めした直後のワインと、今日本国内で飲むワインに違いはありますか?」
A26:大きくは変わらないと思います。
Q27:「オスラーヴィエの裏ラベルが2012年から変わりましたが何故ですか?」
A27:ワイン法の監査が入ったためです。逆に表ラベルにOslavjeと入っているのはロゴと見なされるので問題がありません。裏ラベルには法律的に必要な情報が記載されていないといけないのですが、今まではそれほど売れていなかったので、法律上間違った記載があっても気にしていませんでした。しかし、皆さんもご存じの通りオレンジワインという言葉と共に世界で知られる存在になってしまったため、村の名前に近い名前を書きづらくなりました。ホームページにもフリウラーノと書いてはいけないので、スラトニックは「シャルドネと白ブドウ」と記載しています。DOCを取得した上でフリウラーノと書かないと品種の表示ができないのです。
Q28:「細いコルクを使う理由は?」
A28:コルクの需要に対して、世界中で供給が間に合わなくなっている状態ですが、父は目の詰まった高品質で安定して比較的価格も抑えたコルクを探しいていました。そんな父がポルトガルのコルク業者と話をしていく中で、思いついたのが「細いコルク」です。コルクの価格は容積や長さで決まります。コルク樹皮というのは若いうち、特に芯に近い内側の目が詰まっているため、コルクを細くすれば厚みが減る分、樹皮は早く収穫できるし、目が詰まっている質の良いコルクが比較的安価で長い期間取れることになるわけです。
Q29:「Sラインは何故750mlなのですか?」
A29:マセレーションを始めたばかりの頃のラディコンは基本750mlのボトルでしたから、それになぞらえ果実味がフレッシュな状態のSラインは750mlに詰めることにしました。熟成タイプのブルーラインと分ける、という理由もあります。
~家族のこと~
Q30:「お母さんの料理で好きなものは何ですか?」
A30:ポルペッティです。母というより、祖母の料理のようにも思いますが、祖母から母に継承されているため、質問には答えたことになりますかね(笑)?私の家のポルペッティは、モルタデッラやハムを大きく潰して、つなぎを入れ大きな団子状にして、それを潰して揚げたもので、ソースはかかっていません。
Q31:「おじいさんの名前を教えてください。おじいさんとスタンコとの関係はどんなものでしたか?」
A31:祖父はエドアルドといいます。みんなからはエトゥコと呼ばれていました。祖父は戦時中に捕虜となりドイツで強制労働をしていましたが、戦後地元に戻ってきて祖母と結婚、父が生まれました。父と祖父母は歳の離れた親子で、家長第一主義の古い時代の考え方を持っていた祖父に対して、父は反発することが多かったようです。祖父の言った「スタンコは変わったお父さんを持ったね。でもサシャはもっと変わったお父さんを持ったよね。」という言葉は、今でも家族の笑いのネタとなっています(笑)。
祖父は父に対して一度も「Bravo!(ブラーヴォ よくやった!素晴らしい!)」と言ったことがないそうですが(笑)、当時若干23歳の父に家長を譲ったことは本当にすごい事だと思います。それがあったお陰で、父は自分の考えに至ったわけで、ラディコンというワイナリーにとって、とてつもなく大きなことだったと感じています。
スタンコとエトゥコのエピソード:
・スタンコがワイナリーを引き継いだ際、シャルドネを植えようとしていると、エトゥコから「シャルドネを植えるのは構わない。だが、リボッラも植え続けろ。この地域で育てられてきた品種を途絶えさせるな。伝統には理由がある。」と言われたそうです。サシャ的には祖父は「土着品種の重要性を伝えたかった」のではないかと。
・スタンコがブドウを植え始めたとき、大きなトラクターが入れるように畝の間を広くしたら当然収量が少なくなるので、エトゥコに「こんな贅沢な植え方が出来るほど、俺たちは土地を持っていない。」と怒られた。
Q32:「お父さんとは喧嘩をしましたか?」
A32:ワイン以外のことでは言い合いがありました(笑)。ですが、ワインに関しては同じようなヴィジョンを持っていたし、もちろん自分ならこうするという部分があったにしても、ワインの好みが近かったので、大きな問題は起こらなかったと思います。2009年からはSラインを造ることで、それまで不揃いだったブドウの収量とワインの生産量を正常化させることができましたし、2014年以降はスタンコもセラーに立てる状態ではありませんでしたが、2人で考えチャレンジしてこれたと思います。
~ヴィナイオータ 太田のこと~
Q33:「太田さんと初めて会ったときのことを覚えていますか?」
A33:はい、自分は18歳くらいだったと思いますが、記憶にあります。ワイナリーとして、マセレーションを始めたもののクレームが多く大変な時代でしたが、自分たちのそれまでのワインではなく、新しい造りのワインを美味しい、楽しいと思ってくれたのが、遠く離れた日本から来た外国人であることにとてもビックリしました。それ以降、毎回父と久人が開けるボトルの本数がすごかったことが印象に残っています(笑)。久人に対して、父の高いリスペクトがあることを自分は感じましたし、そこからもすごい人なんだろうなと思いました。
Q34:「スタンコさんにとって、太田さんはどんな存在だったと感じますか?」
A34:父から直接聞いたことがないので、質問の答えになるかは分かりませんが、久人の味覚には高いリスペクトがあったと思います。自分が試していた新しい仕込みや考えについて、一緒に飲んで考えて、意見を言ってくれる数少ない相手であったことは間違いがなかったと思います。家族以外で、セラー内の全てのワインにアクセスできるのは、久人を除くと2人しかいません。そこからもラディコン家の久人へのリスペクトを感じていただけるのではないでしょうか。
~日本について~
Q35:「今回はどのような気持ちで来日され、どのような感想を持ちましたか?」
A35:先月はアメリカに行って一度イタリアに戻り、上海から日本に向かい、今回のスケジュールを知ったのは3日前なので、、あまりイメージができていませんでした。。とはいえ、、ラディコンにとって世界最大のマーケットである日本という場所が5年という時間でどのように進化したのかを楽しみに来ました。結果として改めて日本人の食に対する意識の高さに驚かされ、その食への意識の高さが、皆さんと私たちのワインを素直な形で繋げてくれたのだと確信すると共に感銘を受けました。