toggle
2025-03-04

ヴィナイオッティマーナ 2024 Vol.2【造り手セミナー】 サンタ マリーア


P4_DAY1 12月8日
造り手:Marino Colleoni (マリーノ コッレオーニ)
通訳:太田 久人
担当:中林 愛絵

①造り手紹介 (00:00~)

ヴィナイオッティマーナ2024 vol.2 ピリオド4DAY1(12月8日)に行われたサンタ マリーアのミニセミナーです。トスカーナ州のモンタルチーノより当主のマリーノ コッリオに来日していただきました。

ベルガモ出身のマリーノとルイーザ夫妻は、1989年に長年住むことを夢見てきたモンタルチーノに土地を購入し、’93年に完成した住居に住み始めます。ある日、敷地内の“森だと思っていた”場所を散歩していたところ、栗の木のてっぺんにブドウがなっているのを見つけます。

その区画を地元の検査機関に調査を依頼すると、なんとブドウ畑だったことが判明します。銘醸地であるモンタルチーノでは、新たにワイン用のブドウ畑を開墾することには厳しい規制があるのですが、歴史的経緯からその場所に新しい畑を仕立てる許可が下り、そうしたきっかけで’97年にブドウを植え、2000年からワイン生産を開始します。

現在は畑も増やし、カスティリオーネ ディ オルチャとカステルヌオーヴォ デッラバーテで、計3.3ヘクタールを所有してブドウとオリーヴを栽培しています。

Q1. 購入した土地に昔ブドウが植わっていたことが判明したので、ブドウを植樹し始めたとのことですが、どのようにブドウ栽培やワイン醸造をスタートさせたのでしょうか?栽培や醸造のノウハウなどは?

A1. これを皆さんに説明するには、過去に遡らないといけません。記憶を紐解いていくと1950年代、つまり戦後(私が7歳頃)というのは、工業的な仕事よりも農業を生業にしている人が多かった時代です。それと同時に、農業から工業的な仕事にシフトチェンジしていくような時代であったとも言えます。農業を本業にしていた人が、工業的な仕事を即時に本業にするというのは難しく、兼業していた人も多かったと思います。そういった移行期間(5~6年間)を経て、工業的な仕事が本業になっていくと思うのですが、私の父もその影響を受けたうちの一人でした。

父が兼業をしていた期間というのは、丁度私も物心が付いてきた頃でした。相変わらず父は農業をしていたのでお手伝いというよりは真似っこと言った方が近いかもしれませんが、私も土に触れながら農業をしていました。

そういった背景もあり、モンタルチーノでブドウの栽培を始める際には、幼い頃に農業をやっていた記憶が蘇ってきて、不思議なことに身体が覚えていたのです。身体が覚えているので勝手に動くという感じで、実際にはやったことのない作業でしたが、当時の感覚を頼りにブドウの樹の周りに生えているツタなんかも鉈で取り払ったりしていました。

Q2. 現在3箇所にブドウ畑があるとのことですが、それぞれにどのような個性があり、どのような取り組みをしているのでしょうか?

A2.自宅に隣接している畑である、サンタ マリーア(地所)は北向きです。モンタルチーノには北斜面にブドウを植えるという歴史的背景があります。昨今の異常気象で酷暑が続く日もあるのですが、北斜面にあることによって、多少日照を抑えられているような気がします。谷になっている場所なので、川が運んできたライムストーンが地質にあり、それがワインにミネラル感や複雑さをもたらしています。それから、森に囲まれている畑であるため、周りから隔絶されている環境で栽培できているのも強みであると思います。北斜面でありながら、土地が肥沃なのでブドウの収量もあり、表現力のあるブドウが栽培されている場所と言えます。

トスカーナ州は中央イタリアと呼ばれますが、北と南の境界線でもありワインからは南の雰囲気も感じます。植わっている植物の性質はから考えても、モンタルチーノはどちらかというと北に近しい環境だと思います。

カステルヌオーヴォ デッラ バーテ(サンタ マリーアの南)は、サンタ マリーアから10km程ですが全く異なる畑です。とても痩せていて、土の色も全く異なり、凝灰岩で構成されている土地です。サボテンやハーブが自生しており、ハーブは香りが強いカレープラントのような、より地中海のような雰囲気を纏った環境です。

カスティリオーネ ディ オルチャ(サンタ マリーアの南東)は、ブルネッロの生産区域の隣町にあります。どちらかと言うとカステルヌオーヴォ デッラ バーテに近い雰囲気ですが、さらに痩せている土地です。そんな環境であることからも、樹齢15~20年でもブドウの樹はとても低く、ブドウの収量もモンタルチーノと比較するととても少ないです。

(※通訳、太田からの補足/私見)
モンタルチーノが銘醸地として名を馳せたのは、ある程度の収量が見込まれている土地であることが一つの要因としてあると思います。痩せた土地というのは、当然のことながら収量も見込めないため資産価値としても低くなります。つまり、銘醸地とは真逆の方向に行きがちになります。そのようにして選択と淘汰されていった歴史があることを、今ふと思いました。

Q3. 元ヴィナイオータスタッフの菅原さんがワイナリーに参画しているとのことですが、今までとどのように変わりましたか?ワイナリーとしての今後の展望はありますか?

A3.(※通訳、太田からの補足)
菅原はdadada(旧だだ商店)でソムリエとして働いていました。イタリアでワイン造りの修行をして、最終的には出身地の岡山でワインを造りたいとい夢を持っていました。僕はずっと岡山にブドウを植えるよりも、イタリアでワイン造ることをおすすめしていましたが(笑)

そして彼はコロナ渦にイタリアに渡り、’21年、’22年はサルデーニャのパーネヴィーノの収穫と仕込みの手伝いをしました。ブドウの品質は両年とても素晴らしい年でした。’22年に僕と菅原で収穫するタイミングがあったのですが、その時菅原に言われたことがありました。「自分のエゴで岡山にブドウを植えてワインを造るという考え自体が、いかに傲慢であったかということを思い知りました。」と。パーネヴィーノで’21年、’22年と一切農薬を撒くことなく、完璧なブドウが生るのを目の当たりにし、神に約束された土地が存在することを知ったこと。適地が存在すること、適地だからそういうものが造られてきたということを痛感したそうです。

それがきっかけとなり、彼は岡山に帰ってワインを造るのではなく、イタリアに残ることを決意します。菅原がサンタ マリーアのワインが好きだったこと、そして人手不足でマリーノが困っていることを知っていたので、僕が紹介して繋ぐことになり今に至ります。

マリーノがモンタルチーノに土地を買った時の価格が10だったとすると、そこにブルネッロを造る許可が下りる畑が付いてきたことで恐らく20まで跳ね上がると思います。現在もモンタルチーノはバブルなので100になっているとも言えます。つまり、残念ながら若者がおいそれと買える代物ではなくなってしまったのです。マリーノとルイーザには跡取りが居ないのですが、遠い親戚に土地を遺産として残すことには興味がないことは分かっていたので、彼らが大切にしてきたフィロソフィーを汲むことができるであろう菅原(農民戦士)を送り込みました。

(※マリーノ回答はここから)
ヒロシ(菅原)を初めて見た時に僕は25歳くらいかな?と思ったら、もうすぐ40歳と聞いてびっくりしました。彼はとてもジェントルで明るく、真面目に仕事をしてくれています。今シーズンで丸2年働いてくれています。

僕は今後を見据えて、ヒロシに戦士ではなく、司令官になって欲しいと思っています。指示されたことをするだけでなく、自分で考え行動して、他の人にも指示を出せるようになって欲しいです。私達が居なくなっても、サンタ マリーアでの営みを彼に任せられたらいいなと思っています。僕とルイーザがやってきたことをそのまま踏襲することを望んでいるのではなく、多くの人を巻き込み彼らのアイディアを取り入れることによってサンタ マリーアがあるべき形で運営してくれることを願っています。

(※通訳、太田からの補足)
現在菅原にはブドウの栽培や醸造をメインに働いてもらっていますが、ワインのみならずオリーヴ畑などにも関わって欲しいと思っています。オリーヴ畑の面積を増やすことで収入が増えれば、例えブドウの収量が芳しくなくても一助になります。そのような判断や推進を彼に任せていきたいと考えているようです。

彼は「これをしたいのだけど、やってみてもいいかな?」と、自ら発言するキャラクターではありません。私は彼が切り出してくるのをずっと待っていましたが、今回の来日で日本人特有のシャイな部分というのを体感しました。なので、こちらも彼の考えや意見というものを引き出してあげる必要があると分かったので、モンタルチーノに帰ったら今後の話をヒロシとしようと思っています。

③まとめ

マリーノの回答やリアクションは常に冷静で淡々としていますが、飾らずリラックスしていたのがとても印象的でした。ワイン造りのみに関わらず、小さな気付きを見逃さずに、焦らずやるべきことをしっかりやっていれば、自ずと結果は付いてくるよ、と言われているように感じました。(中林)

関連記事