toggle
2024-03-26

ヴィナイオッティマーナ2024【造り手セミナー】カーサ コステ ピアーネ

①造り手紹介 (00:00~)

カーサ コステ ピアーネのミニセミナーです。カーサコステピアーネは、現当主のローリス フォラドールと、長男のアデルキと、次男のラファエーレで運営しており、今回来日してくれたのはラファエーレと、奥様のナターリアです。
イタリア北東部のヴェネト州、ヴェネツィアから北に80km、ヴァルドッビアーデネとコーネリアーノの二つの町に挟まれた、海抜250~400メートルの丘陵地帯にある、サント ステーファノという小さな村にあるワイナリーです。
プロセッコは、フランスのシャンパン、スペインのカヴァと並ぶ三大スパークリングのひとつと言われていますが、弊社がカーサコステピアーネから輸入しているのは、昔ながらの造りのフリッザンテのみです。
プロセッコの丘の斜面の土壌の特徴は、氷河に削られた岩や土砂などが移動され堆積されて隆起してできた「モレーン」という地形となっていて、ミネラルを豊富に含んでいます。
急こう配で高低差があり、登る際には草を掴んで登らないと転げ落ちてしまう様な、場所もあります。大型機械も入れられないため、作業はほとんどが手作業で、上空から見ると地図の等高線を引かれたような景観から、約400年に渡る代々の開墾の努力の蓄積を垣間見ることができます。今のような景観となってきたのは19世紀ごろで、2019年には世界遺産にも登録されています。
この地域は、およそ1500年以上前からワイン造りの歴史があると考えられていて、フォラドール家も代々ワイン造りを継承してきましたが、1970年代から現当主のローリスが両親の仕事を手伝う様になり、1983年から自家瓶詰めをスタートしました。ワイナリーの周辺に250~400メートルの高低差のある畑が点在して、合わせて約6ヘクタールの畑を所有しています。
周囲では近代的で工業的な大量生産型の造り方が増えていくなか、ローリスは頑なにシンプルに、昔ながらの造り方である、瓶内二次発酵および澱引きをしない方法を貫き通しており、伝統的に微発泡をこれからもずっと続けていく強い志をもったレジェンダリーな造り手です。

②造り手への質問と回答

Q1. 他の生産者が近代的大量生産型の造り方でワインを造るなか、「昔ながら」を貫こうとすると、何が大変だと感じますか?(3:48~)

A1. まず、自分の父親(当主ローリス)がそういうワインを好きだったからだと言えると思います。
自分たちはワインを売って生活を、生計を成り立たせるためにワインを造っている訳ですけれども、同時に私たちはワインを自分たちで飲みます。自分たちが飲みたいとか、自分たち自身が好きだとか、自分たち自身が素敵だと思えないワインを造ることに何の意味も見い出すことができないと考えています。
何よりも一消費者である自分がこういうものが好きだ、というものを造らない訳にはいきません。そして、それが瓶内二次発酵や、澱引きをしない状態で出すフリッザンテが最も自分たちの畑などの持つ特徴を、その液体の中に溶かし込むように表現できる方法だと思っていたので、なぜ今更変えなきゃいけないのか?というように思っています。
ですので、周りがどうこうではなく、まず自分自身が好きであること、あとは、それ自体に本来のワインで表現しなきゃいけないものがちゃんと表現されているため変える必要がない、と思ったことが、ブレずにスタイルを変えずにやり続けられた一番の理由なんじゃないでしょうか。

Q2. まず食事の最初に登場するご自身のワインを、どのような存在に感じますか?(7:30~)

A2. (オータの解説):彼らの食事のシーンを見ていると、絶対必ず自分たちのプロセッコをその食事の度にまず1本開けて飲んで、それが終わったら彼らが見つけてきた新しい造り手のワインなども開けてくれて飲ませてもらったりする感じなのですが、「ワインと食事」ではなく、彼らのワインというのは「食事のひとつ」というようなノリです。

(ラファエーレ):もうほとんど何も考えずに無条件に身体が反射的に開けて注いで、とりあえず飲んで食事が始まるというような存在です。だからもはや、ワインを飲むといっても、食事の外側にあるというより、食事の中にある存在です。ですので、無条件に何も考えず開けるものです。

Q3. 他の造り手の赤ワインを飲む機会もあると思いますが、白以外も今後造ってみたいと考えていますか?(10:17~)

A3. 醸造学校に通っていた時に、先生にその質問をしたことがあり、その時の答えが、「それがこの土地の伝統だから」とあっさりとした答えでした。醸造学校の先生がそんな答えをしてはいけないんじゃないかと思いましたが。
当時の先生は伝統という言葉で済ませてしまいましたけれども、当然、気候とか土壌とか色々なファクターが重なって、やっぱり栽培しないことを先人は選択してきたのではないかと思います。赤ワイン用のブドウというのは、ある程度の高い糖度が必要で、アルコール度数は12%~13%ぐらいにならないと、そして、果皮が黒くなるポリフェノールが熟さないと美味しい赤ワインになりません。私たちが育てているグレラ、プロセッコという品種は、ものすごく酸があり、それほど多くの太陽を必要としないということ。あとは雨の降り方が山の天気のように瞬間的に降水量が増えたりするので、そういう場所だからこそ敢えて完熟した時にもそんなに糖度の上がる必要のない品種である必要があったのではないかと思います。ですから、これまでの経験を重ねてきた中でプロセッコという品種を選んできたのだと思います。よく考えてみても、赤を植えても本来のクオリティのある赤ワインを造るためにブドウを完熟させることが難しいから黒ブドウは植えて来なかったのでしょうし、その結果として自分たちも造って来なかったというものがあります。

実は、ヴィナイオータと取引を始めた当初、ラディコンのように皮ごと醸したタイプのワインというのも、何年か造っていた時代もあります。今カーサコステピアーネのワインを飲んでいるみなさんは、微発泡のワインしか飲んだことが無いと思うのですが、私たちもいろいろ試してきましたし、皮ごと醸したプロセッコもやってみました。別にそんなに悪くないけれど、やっぱりプロセッコには泡が欲しいと思い、皮ごと醸したものを微発泡に仕立てて造ってみました。しかし、飲んでみると悪くはないが、なにか調和のようなものが無いワインになってしまうとかんじました。いわゆる白ワイン的な造り方で瓶内二次発酵させたもののほうが、すごく繊細で儚い。それが、プロセッコという品種の美徳だとするならば、それがちゃんと反映されているワインというのは、一切マセレーションをしないようなワインで造った微発泡が一番向いている気がしています。

自分たちが個人的に飲む上では、醸した白も大好きです。ラディコンやグラヴネルのいるコッリオのゾーンで例えるのならば、あそこは醸すべき場所だと僕たちは思います。偉大なワインの産地ですし、醸すべきブドウが採れる土地だと思っています。例えば、リボッラジャッラみたいにそんなに度数も上がらないブドウでさえアルコール度数13%を越えます。ですから、赤ワイン的な造り方をしたとしてもちゃんとボディのあるブドウが採れる場所なんだと思います。だからこそ、そういう造り方が向いているのだと思います。ですが、やっぱり自分たちのブドウはアルコール度数11%前後程にしか上がらないわけで、どうしてもボディに欠けるというものになってしまいます。そういうブドウを醸すということは、例えると無理やり筋肉を付けたようなもので、そのようなワインはすごくアンバランスになると考えています。

(オータの解説): 現在、プロセッコしか造っていないというのは、彼らが好きだから、ということ。そして、色々試した結果、やっぱりその伝統的な造りの中に色々な意味で理由があること。試したら試しただけその伝統の中の意味を知ったという手前、これ以上試す必要がないという結論に達しているのです。

Q4. 家族で仕事をすすめるうえで、ラファエーレ自身が大切にしていることは何ですか?(21:11~)

A4. この質問からは少し外れてしまうかもしれませんが、もし家族で働く中で難しいことがあるとしたら、親子間で働く構図になるわけですが、当然、息子対父親というところになると思います。
自分が若かった時に、自分の父親が大変だったのではと思うところは、例えば、みんなで盛り上がりたくて外へ飲みに行って、夜遅く、もしくは翌朝早くに帰ってきて、仕事の時間に遅れて寝坊して起きることもあったわけです。その時、例えばそれが雇われの身だったら、「クビ」の一言で終っていたかもしれませんが、家族で仕事をしているので、そう言われることはまず無いわけです。だからと言って、極端に甘いわけではなく、適度に厳しかった点では非常に助かっているかなと思います。
2003年頃に、カーゼバッセの今は亡きジャンフランコ ソルデ―ラ(2019年逝去)、というブルネッロ ディ モンタルチーノを代表する、父親も信頼する造り手がいるのですが、父親と一緒に彼のところに遊びに行ったときに彼から「地元で父親を手伝う仕事だけではなく、もっと色々な外の世界を見に行ってきた方がいい」と強い調子で言われ、帰りの車の中でも、父から「家業を継がなくても良いし、将来は自分で決めて良いのだよ」というような辛いことを言われたのですが、自分は残るという選択しました。

ちょうど、自分の年代あたりでも、代々続くまざまなワイナリーがありますが、外に働きにいく人が結構多かったのです。その時は1993年頃になるかと思いますが、大量生産型の造りが多く、生産地域全体として明るい未来を感じなかったからだと思います。カーサコステピアーネが瓶詰めを始めた1983年頃や1990年頃は大量生産の工業的に造られたプロセッコしか無かった時代だと思います。そんな中、頑なに昔ながらのプロセッコを父は造ってきたので、恐らく地域では、やや変人扱いされたのだろうと思います。

結局、私は、父親のことを間違っていないと信じ、やっていることも素敵だと思っていましたし、実際にワインも美味しいと思うから手伝ってきたわけです。そんな中、外に働きにいっていたご近所の他のワイナリーの子供たちが15年ほど経って帰ってきて家業を継いだときにどうなったかというと、澱引をしない状態でリリースされる微発泡性のワインの造りが多くなりました。今やプロセッコでもたくさんの造り手たちがそのように造るような状況になってきています。当時は、カーサコステピアーネを含め、片手で足りる数くらいの造り手しかいなかった造り方でしたが、今は、もう右も左も造るようになっているのです。

自分の父はプロセッコという土地において、間違いなく伝統を体現してきた造り手だと思います。あのときソルデーラにあんなに酷いこと言われたけれども、自分はワイナリーに残って15年間経験を積んでここに居られることにはちゃんと意味があることで、ブレなくて良かったな、と思っています。

③まとめ

そのときの周囲に流されることなく、信じたものを頑なに貫きとおすその信念は、ローリスだけではなく、ラファエーレの言葉からもしっかりと感じられ、きっと今後もブレのないプロセッコのワインを造り続けてくれるでしょう。ナターリアもとても楽しい奥様で、冗談の利いた返しに、ユーモアのセンスがある仲睦まじい素敵なご夫婦でした。私たちヴィナイオータとしても、彼らの人柄や想いをしっかりと伝えられるよう、今後も更に努めて参りたいと思います。(小沼)

関連記事