toggle
2023-05-29

ヴィナイオッティマーナ2022【造り手セミナー】ダヴィデ スピッラレ

①セミナー動画 (質問コーナー|03:03~)

ヴィナイオッティマーナピリオド8 DAY1に行われたセミナーの様子です。スピッラレ家は代々兼業農家としてブドウ栽培を営んでおりました。収穫したブドウのほとんどを売却し、一部のブドウを残し、甘口のワイン、レチョート スプマンテを自家消費用に生産していました。ダヴィデのお父さんがビアンカーラのアンジョリーノと友達だったということもあり、幼い頃から、アンジョリーノの家に出入りしておりました。アンジョリーノの畑やワイナリーでの仕事に魅了され、徐々にダヴィデもワインにのめり込んで行きます。そして、10代の若さでワイン生産者の道を歩むことを決意します。大地には良いブドウを育む全ての要素が備わって(そなわって)いる、という考えから、ブドウ、自然、大地、との対話を、最も重視し、ボルドー液以外の薬剤を使用せずブドウを栽培。醸造においても、出来る限り手を加えず、シンプルで本質的なワイン造りを目指しております。

②造り手紹介 (01:06~)

ダヴィデ スピッラレの造り手紹介、詳しくはこちらから。

③造り手への質問と回答

Q1. 18歳からワインの仕事を始めて、いままで違う仕事をやろうと思った事はありましたか?(3:03~)

A1. NO!
18歳の未成年の時に ワイナリーを始なんて、日本人的にはとんでもないことですが、当然18歳より前に何やってたかと言うと 高校生だったわけです。
最初にノーと 答えたのは、やろうと思ったことはありますか という答えに、ないと答えたわけですけれども 高校生の時に、当然勉強しますよね、でも 大して勉強してなかった。それでも勉強しないなりに 本 読んだり 学校で習う事がありまして、色々考えたことはあったと思います。ただ 他の仕事をやろうと考えたことはないです。

私は農学校に通ったわけですけれども、その時から大地に触れ合うこと、農に携わることとかブドウの木に触れて ぶどう栽培に携わることは、ずっとやってみたいことと思っていたことで、夢を実現しただけなんです。ブドウ 栽培を実際やってワインを作っていくという中で、自分の後押しをどんどんしてくれた存在が ラ・ビアンカーラのアンジェリーノ マウレ と言えると思います。

彼がいたおかげで 大地に触れ合うこと、大地に敬意を払うような農業、そういう形のぶどう栽培のあり方、醸造に関しても最後の一押しみたいなもの、ブドウを育てて、愛情を込めて作ったぶどうをワインにすることまでが、大事なんだっていうことに関して、アンジョリーノの影響が大きく、そのおかげで今の自分があると思います。
自分がぼんやりと 抱いていた夢や、やっていてみたいという夢が、完全に情熱に変わった瞬間があったような気がします。だからもっと前に進みたい、もっと知りたいという気持ちがありました。
自分の土地っていうのは、ある意味液体自体が 雄弁に自分たちのテロワールを語れる、すごい偉大なポテンシャルがあるということに気づきまして、それを液体の中に表現するのを目標に情熱が生まれたことで始めました。ですので、他の仕事に就こうと思ったことはないです。

Q2.この道を歩むと決めた時、家族から反対されたと聞きました。その後、どのように理解を得られましたか?(8:01~)

A2.一番反対したのが、もう亡くなっちゃったんですけど、おじいさんでした。おじいさん からすれば ブドウ栽培なんて一番儲からない、そんな仕事 やるもんじゃねえ。という感じでかなり 反対してたんです。

ある時から反対しなくなったのですが、それは 太田が始めてセラーを尋ねた時なんです。当然 イタリア人でもない 典型的な東洋人の面立ちの人間が 車から降り立つわけです。 そうすると、 おじいさんがあいつは何だ みたいな感じで 訝しく見ていました。「ヒサトって言うんだけども、日本人のワインのインポーターだ」というと、「日本ってどこだ」 「中国の向こうの島だよ」、「インポーターってなんだ」「 日本ってあんまりワインが作られてないから、ワインを飲みたい人の為にイタリアとかフランスからワインを運ぶ人の事だよ」 で、「こいつは何しに来たんだ」みたいなやり取りがあり、「僕のワインを買いに来たんだよ」って言ったら、その後から 訝しく見ていたところから一切反対しなくなりました。 そんな遠いところからワインを買いに来る人間がいるんだ、っていうのを確認してからおじいさんからは何も言われなくなったというのが一つあります。

で二つ目が、当然 両親からの反対というか、 本当にそんなことやって大丈夫なのかと。 親心からだと思いますが、心配だったのだと思います。

ただそれも、私はヴィナイオッティマーナに4回、全て 参加しているわけですが 、その度に、父を連れてきたり叔父を連れてきたリ、 母を連れてきたりしているわけです。当然のことながら、いわゆる肉親が息子である私のワインがどのように飲まれてるのか 、どういう風に私が扱われているのか、傍から見ているるわけですが、 皆さんの熱い リアクションや盛り上がりを見て、 我が息子が造るワインは日本で愛されてるのだなーっていう確信をもってもらいました。ワイナリーにもいろんな国の人が訪ねに来て、称賛をして、ワインを買ってくれているという結果が出てるということもあり、さすがに今は信じてくれていのではないでしょうか。

Q3. 今後、ガルガーネガ、メルロー、ドゥレッラ以外を植える予定はありますか?(14:07~)

A3. まず考えていないです。もし、新しいブドウの木を植える機会があったとしても、基本的にガルガーネガを選ぶのではないか。やっぱりカルガーネガこそが自分の土地を余すことなく表現できる葡萄品種だと考えていますので、それ以外を基本的には植えるつもりはありません。
メルロー に関しては、黒ぶどうはもともと栽培されていなかった土地っていうこともあって土着品種っていうのもではないです。その中で周りの結果を見てもメルローっていうのは多少 自分たちの土地を体現できると葡萄品種だと、 ラ・ビアンカーラなどの造り手を見て思ったのでメルローは植えてます。これが唯一の土着品種ではないという意味では 例題に当たるかもしれません。
ドゥレッラですけれども L1っていう微発泡性のワインを作るようになった時に、発泡性の物に関してはやや酸があった方が ワインとしての風格が出ると考えたので、栽培しています。

当初はドゥレッラのぶどうを信用のおける農家から買っていました。しかし、いつまでも 買うのもいかがなものか思い、自分で植えるようになりました。今は フリッザンテというか、 微発泡性のワインしか作っていませんけれども、 もしかしたら、いつかその ドゥレッラでメトド クラシコというか、いわゆるスパークリングワインも作るという ダニエル(ピッチニン)がやっている様な事をやるかもしれません。

Q4. 太田がワイナリーを訪れた際、ダヴィデが15歳の時に造ったレチョートがあったとの事ですが、イタリアでは、その当時は16歳から飲めたらしいですが、何歳から何が楽しくてその道に入ったのでしょうか?なにがそんなに駆り立てのでしょうか?(18:27~)

A4. これはいつも思うんですけれども イタリア人にイタリアは何歳からお酒を飲めるんですか って聞いてちゃんと答えられる人っていないんですよ。だけどそれが意味するということは、どれだけ ワインがいわゆる 食事の一環だったということか 、ワインを水代わりに飲むというか ビールを水代わり飲むというか、僕たちやや茶化していってますが、本当に水代わりだったんだろうな っていうのがそんなことからもわかります。

それからアルコールに関しては多少の害があるってこともあって規制するようになりまして、今確か イタリアだと16歳だと思うんですね。 醸造酒を飲んでいいのが16歳、蒸留酒をカクテルも含めて、もう少し上とかあるんです。
で、私は本格的に何歳から飲み始めたのか聞いたら、そんなの言って大丈夫かな、、、。一応、ここ日本だから大丈夫でしょう。13歳から14歳かな。
それは、そんな不思議なことではありません。当然お酒飲み始めるときは、皆さんもそうだと思いますが、甘いお酒から始めますよね。だから、私もレチョート、陰干ししたブドウで造った甘いワインを嗜むことからワイン人生が始まりました。父親とかおじいさんが造ってるの見ても、ものすごい濃いブドウジュースの味わいものすごい魅力的でしたし、それがアルコールに変わって甘みが多少落ちるけど、飲み心地がむしろ上がる液体にも、魅了されていって、覚えてないですけど、2003年くらいが多分最初に造ったワインだと思うので、やっぱり、13歳か14歳くらいの時からだと思います。自分でお父さんと一緒にワインを造るようになりました。

④まとめ

10代でワイン造りをやると決めたのには、凄い決断力だなと思います。実際20年近く携わったてきて、現在も変わらずワインを造っていて、心から楽しんいるように見えました。話を聞いていると物静かですが、ワインの事になると、胸の奥に秘めている、熱いものを感じました。いつかドゥレッラで造ったスパークリングワイン飲んでみたいです。(担当:宮内)

関連記事