toggle
2011-02-01

自由なワイン宣言 

自由な造り手による、自由な人のための、自由なワイン

それは2011/1/26、藤巻さんとの漫才のようなツイート交換から始まりました。詳しくは藤巻さんのツイートを見ていただきたいのですが、ツイッター自由なワイン連合なるものが結成されまして、自由なワインと冠にあるからには・・・ということで、僕が総長を拝命させていただいた次第でございました。そしたら、僕たちの予想を遥かに超えたスピードで参加したいという方が集まってきてくれておりまして・・・大変ありがたいと思いつつ、少々動揺もしております。とはいえ、事務処理全般(フォローしてくださる方のリスト化)は書記、藤巻さん(先ほど決まりました)がやってくださるので、僕はこの連合創立にあたり、掲げる理念みたいなものをぼちぼちご説明していこうかと思います。

実は、かなーーーーーーり昔から書き溜めておりました、まだアップされていない未完の記事が2-3ありまして、その内容は今後の会社としてのヴィナイオータの方針であると同時に”自由なワイン”に関する僕なりの考えがまとめられたものでした。恐ろしいタイミングでの藤巻さんによる連合立ち上げのせい(”おかげ”と読みます)で、急いで仕上げなくてはいけなくなっちゃいました・・・。藤巻さん、ありがとうございます!(涙)

急ぐには急ぐつもりなのですが、連合はもう発足してしまってますし、すでに”自由なワインって何?”という質問も出ているようですし、長い間皆さんをお待たせするのもなんですので、概要だけでも皆さんにお伝えしておきます。

上の”自由なワイン宣言”に言葉を付け足すと、こんな感じになります。

農業、醸造の世界で、”セオリー”や”常識”とあっさり片付けられているあらゆる事、格付け、ガイドブック、権威などのしがらみ、自然への畏敬の念を抱きながら農業をしブドウを醸したのなら、持つはずのない行き過ぎた虚栄心、

などから自由な造り手による、

先入観、固定概念、偏見、他人の意見・評価、

から自由な人(飲み手)のための

虚飾、束縛、そしてもしかしたら時々SO2(酸化防止剤)

からも自由なワイン・・・

自由なワインという言葉はもともと、知り合いでさえない2人の造り手が、僕に対してほぼ同時期(偶然のようでいて、必然と思えるようなタイミング)に使い始めまして、僕自身、自分の扱う、愛してやまないワインを形容するのに、”ビオワイン”、”自然派”、”ヴァンナチュール”などの言葉が適切でないと思っていた時期なだけに共感を覚え、以降自分でも使うようになりました。その造り手の1人は弊社取り扱い、イタリアはサルデーニャ州、パーネヴィーノのジャンフランコ、もう1人はフランス、アルザスのジェラール・シュレールの当主ブルーノ。ジャンフランコのほうはこちら(←パーネヴィーノ、ジャンフランコからのメッセージ その1 へリンク)を読んで頂くとして、ブルーノがなぜこの言葉を使うようになったのかを僕にこう説明してくれました。「俺自身、結果として、畑でもセラーでもより自然にと心掛け造られたワインを美味しいと思っているけど、それが、除草剤を使った畑のブドウで造ったワインが美味しくないってことを意味するわけではないとも思っているんだよね。俺は除草剤なんか絶対使わないけど、その造り手が、年齢とかやむにやまれぬ事情で畑で多少の無茶をしたとしても、セラーで誠実な仕事をすれば帳尻を合わす事もあり得るっていうか・・・。そしてビオ、ヴァンナチュールだからって必ずしも美味しいわけでもないし。ワインは何よりもまず美味くなきゃいけない訳で、そう考えた時、自由なワインって言葉が妙にしっくりきたんだよね。」

宣言に謳ったようなことが全て揃ってなければ自由でないのか?もちろんそんなことはありません。

僕達はそこからも自由なのです。ビオも自然派も自由も所詮はただの言葉です。

そして、完全な意味での自由って、存在しないとも思うのです。人間誰しも、意識するしないに関わらず、何らかのしがらみ(不自由)を持っているものですし。だったら自由って?となるかと思います。

きっと、自由であろうとする姿勢、精神が、僕達がより”自由”に近づくための唯一の方法なのかと。

で、自由なんだから何でもいいかと言うとそうでもない気もします。

ワインの世界にはテロワールという、素敵に仰々しい言葉もありますし、ラベルにはヴィンテージが書いてあったりもしますよね。土地(風土、土壌、気候)の個性、ブドウの個性、年どしの個性を最大限に反映させたワインを表現しようとした時に、畑やセラーで人の手で行われる作業は必要最小限であるべきだと思うのですが、その”必要最小限”は造り手個々の”自由度”に委ねられるべきで、その自由度は個々の不自由さ(しがらみ、状況など)によって、差があっても良いものなのではないでしょうか。

とどのつまり自由なワインとは、造り手が自分の置かれている状況を加味した上で、できるだけ自由であろうとした痕跡が感じられる、人の良心が見え隠れするワインということになるのだと思います。

支離滅裂でしょうか?

造り手の自由、飲み手の自由、ワインの自由に関する細かい話はまた後日ということで・・・。

皆さんのリアクションが怖い総長でした。

関連記事